これで200本目。
夏休みの宿題日記も書かなかったのに・・・
訂正
日をおいて読み直して見ると、間違いに気づく。
おかしな文章を訂正したり、冗長な文を削除することもある。いずれの場合も、かなり恥ずかしい。
敬称
このブログでは基本的に敬称を付けないことにしている。
文章の簡略化もあるが、公人を遇する心がけでもあると思う。
例えば、野口英世を、野口英世先生とか、野口英世さんとか言うのは、一見、敬意を払っているようで、自分と同じ世界の人間として扱っている。野口英世は歴史上の人物として既に超人間だ。
同じように現代でも、有名人は社会的存在であって、「さん」や「先生」はふさわしくない。
役職や才能で、世に知られているわけだから、全人格的な話ではない。自分の先生でもなければ、個人的なつきあいがあるわけでもない。
ただ、現在進行形の話題で、その立場に関係している場合は、博士や総理が必要な時もある。
また、長島さんのように、ヒーロー的アイドルとして、ファンが自分と一体化して感情移入をしているような場合は、長島さんとして一つの名詞となっている。逆に、敬称を付けずにヒデとかイチローと呼ぶ愛称の場合も全く同じ親しみからだ。
面白いのは、ヒデが引退したら、とたんにマスコミが中田氏と呼び出した。理屈は解るが、シゲや長島、長島さん同様、有名人として扱うなら、ヒデも永遠のヒデで良いのではないか。
もう一つ、文中に敬称を付けるケースは、書き手が個人的に縁があったり、あるいはその人の著述などを知って傾倒しているような場合だ。その場合、書き手にとっては師であったり、親しい人であったりして、長島さん同様、個人的感情から切り離せない。
これは書き手の個人的スタンスの表明だから自由のはずだ。 例:お釈迦さん
近頃、「敬称も付けないで無礼だ」と言う人がいる。
これは、敬語の使い方が分からなくなって、逆に、めったやたら、丁寧「そうな」言い回しがはびこっている現象と同じだ。
一人称
どんな有名人でも、TVの前などで、
「私の考えでは・・・と思います。僕の個人的意見ですが」
などと、私と僕や俺をごちゃ混ぜにしながら話している。
公に話している意識と、自分の世界に埋没してしまう瞬間とが交錯するのだろう。
始めから、「僕は」と話せば良さそうなものだが、かえって無駄に勇気が要る。
(商談でも口説きでも、相手のタメ口を引き出したら半分は成功といえるが、逆にわざとの場合もあるから、これには用心も必要だ)
TVなどで、「私は」と始めた人が「僕」や「俺」が出る時は本音と考えて良いだろうが、始めから「僕」や「俺」でしゃべっているのは、虚勢やアピールだから、本音っぽい嘘に見えてしまう。
ただ、亀田はあれしか知らないようだ。
文章の一人称は、ムズカシイ
私、わたし、ワタシ・・・だけでも、全く印象が違ってくる。
ここから先は長くなるから、止めた方がいい
このブログでは、今のところ一人称を使ってない。
案外、つらい