魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

国益の時代

2009年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、国益という言葉が、昔より頻繁に聞かれるようになった。
占い的には、時代をつくる冥王星、天王星、土星などが女性星座に居て、世界全体に、ナショナリズム傾向が高まった事もある。

加えて、不況による危機感がさらに、防衛意識を募らせた。
金持ち喧嘩せず・・・、の反対だ。

しかし、大きな目で見ると、むしろこれは、産業革命パラダイムによる、国家競争時代の、終わりの始まりなのだろう。

現状で見れば、国益無くして個人は守られない事が、当前のように思える。どんなに世界統合、世界平和を願っても、現実には、国家単位の欲望から逃れられない。

「さあ、わたしは丸腰だ、君も武器を捨てて出てきなさい」と言った所で、それが信じられる環境が整っていない。
日本の平和憲法も、実際にはアメリカの核の砦の文化祭のようなもので、よほどの信者でなければ、憲法が日本の60年を守ってきたとは思っていないだろう。

だが、保守的発想と、革新的発想とが別れるのはここからだ。
保守的発想は現実を制御しようとするが、革新的発想は理想を求めて現実を変えようとする。当然ながら、革新の方が博打的であり、危険が伴う。
保革どちらが正しいと言うこともないし、使うエネルギーは同じ事だ。

占い的な時代で考えるなら、一つの時代の中では保守が必要であり、時代の変わり目には革新が必要だ。
つまり、革新が時代を変えるのではなく、変わる時代に対応する心構えが必要になるということだ。
しかも、革新的ムードが、一気に時代を変えるわけではない。相互に揺り戻しながら、螺旋状に変わっていく。

また、国益という考え方も、古代から同じだったわけではないし、国も国益も、常に意味は変わってきた。
そして、国益という言葉がある限り、地球は統一されない。

今、現在、政治家として国益を考えることは、重要なことだが、やがて国益の発想が無意味になる日がくることも念頭になければ、現代の政治家としては失格だろう。

300年パラダイムの大転換の視点で、100年先を考えなければ、国家のための政治が、かえって地域のアダにならないともかぎらない。