魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

実は(3)

2009年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

ゴン助のように、猫かわいがりだったワケではないが、
親が筋金入りの放任主義だったから、礼儀作法を一切教えられずに育った。
いまだに無礼者ではあるが、善悪ぐらいは心得ている・・・つもりだ。

18の時、「箸の持ち方が変よ」と言われて、初めて箸に持ち方があることを知った。
それから、礼儀作法や、紳士の心得のような本を色々読んでみた。
読めば読むほど「バカげている」と思った。と、同時に解ったことは、礼儀作法とは、形ではなくて心だ、と言うことだった。

作法の形は時と場所によって、全く逆の場合さえある。
首狩り族の子供を「可愛いお子さんですね」と頭をなぜたら殺される。

おそらく言えることは、相手の作法しきたりを尊重しながらも、迎合しない。同時に、自分の作法にこだわって、相手に迷惑を掛けたりバカにしたりしない。

「こんなこともできないのか!知らないのか!」と思う人は、むしろ、そんなことしか、知らない人だ。
人の行為や態度を非難する人は、モノを知らない人か、寛容性が身に付いていない。

日本語が乱れていると思う人は、「正しい日本語」しか知らない人だ。
中国人が驚く日本の「モラルの乱れ」や、韓国の日本教科書非難は、自分たちの世界だけで考える、無知のせいだと言うことは、日本人にはよく解る。しかし、彼らは説明も聞かない。

世間で起る大合唱の多くは、中韓の日本非難と似たようなものだ。
その大合唱の結果、作法にまでなったものまである。

モンスター
電車内での携帯会話、化粧直し。ファーストフードの歩き食い。地べた座り・・・
ホメられたものではないが、指弾して止めさせるほどのものでもない。
非難、拒絶する理由はいくらでもあげられるだろうが、
ほとんどの動機が、見慣れない聞き慣れない、違和感からの非難だ。

例えば、電車内の携帯の場合。客同士の会話は良いが、携帯での会話はいけないと思うのは、人間同士が話している光景しか見たことがなかったから、アブナイ人の独り言のように見えたこともあるのだろう。

それを止めさせるために、「心臓ペースメーカー」と、まことしやかな理由が出てきたが、後にそれも、理由になるほどのものではないことが明らかになった。
当初、違和感を感じた人まで携帯が普及すると、違和感は消えたが、おかしなマナーが残った。「携帯でしゃべるな」の規制意識は、逆に、人前でしゃべるなのような権利意識に変わってしまった。

近頃、公園で声を出すな、音を出すなの抗議が増えて、事実上、子供が遊べなくなっているそうだ。モンスター・ペアレンツと言うが、社会全体がモンスター化している。

怪我の功名
躾のできていない人間が、躾のできていない犬に噛まれて、まだ痛い。
18の時に指摘された箸の持ち方は、何度も直そうと試みたが、豆拾いも、魚の食べ方も、自慢ではないが、他人より早く器用にさばける。そのため、美しさより、扱いやすさを優先して、今日までなおらなかった。

ところが、人差し指の関節も噛まれたために、従来の持ち方ができなくなった。
その結果、三本の指先で支える「美しい」持ち方しかできなくなり、生まれて初めて、箸の正しい持ち方が身に付きそうだ。
「ゴンタ」先生、お仕置きありがとう