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占いという もう一つの眼

依存社会

2016年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

11月22日、久々に大きい地震で津波警報が出ると、皆が避難したのは良かったが、5年前、多くの死者を出した教訓にもかかわらず、車で逃げる人で、また道が渋滞した。
これは、このところ続いている、高齢ドライバーの事故と、根は全く同じだ。
車と自分が一体化していて、状況にかかわらず、それから離れられない。
車社会と言うより、車依存症の人間で満たされている社会だ。

痴呆老人に運転を止めさせようとしても、隠れて運転したり、終いには暴力までふるい出す。法律で規制されていないから、本人は運転する権利があると考える。
同じ事は、災害避難に車の運転が規制されてないことにも言える。

災害時の避難に使える車は限定しておくべきだ。一般車両は全面規制し、バスやトラックに乗り合って逃げるとか、距離によっては全車通行止めにし、徒歩や車椅子だけが通れるように指定しておくべきだろう。そうした制度さえあれば、日本人は忠実に守る。
運転年齢の上限が決まっていれば、痴呆であっても多くの人は納得する。

依存症は判断力の喪失
スーパーの仕出し物の売れ残り商品を見ると、面白いことに、どんなに美味しそうなものでも、新商品は必ず売れ残っている。もちろん、何でも目新しい物が好きな人は買うが、ほとんどの人が、食べたことの無い物には手を出さないことが解る。
何日も出ているうちに、だんだん売れるようになると、一気に完売するようになる。
結局、人が食べているなら、きっと美味しいのだろうと思うことで、自分も食べてみようと思うのだろう。

多くの人は様々なものに依存して生きている。社会の慣習や、自分の習慣に依存することで、考えずに生きている。新しい行動を起こすとき、自分で考えて判断しない人は、他者の行動に付いていくか、強制に従って生きようとする。
新しい商品を判断したり、試してみようとする勇気が無い人の方が大半だから、売り手は、もう既に社会に認知されているものだと思わせるために、「今評判の」とか、「有名な誰々さんも愛用」とか、「知らないなんて恥ずかしい」のようなことを言って、安心させようとする。行列もその一つだ。

車とかスマホは、一度身についてしまうと、三度の食事のように、それが無ければ生きていけないような物になり、生活の一部、自分自身の一部のように錯覚してしまう。
人間は絶対に三食食べなければならないことはない。六食でも一食でも死ぬことはない。実際、朝食抜きで過ごしている人は相当いる。
いずれも習慣の問題なのだから、いざという時、食事と同じように車やスマホと離れても、死ぬことはない。

ところが、それと離れるべき時であっても、自分で判断できない人が、大半であることは、津波避難の車の渋滞を見れば明らかだ。

車で避難しないことが、社会常識として認知されることも必要だが、依存症の自覚が無い人には通用しない。
災害時の車使用を、あらかじめ規制しておくことは、運転年齢の上限を定めることと同様に、急がれる。
これは、東日本より、むしろ、エネルギーをため込んでいる、南海・東南海地域の方が切実だ。

ところで先日、運転年齢の上限を、少なくとも80歳と書いたが、あくまで「少なくとも」であって、本当は60歳から別制度にすべきだと思っている。
自動運転やアシスト機能付きとか、走行可能地域・時間自動判断車とかの、特殊車限定の免許にするか、走行記録提出を義務化の条件を付ける。異常走行の有無をコンピューター解析できるようにしておく。そうした規制が嫌なら運転を止めれば良いだけの話だ。


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