魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

デジっ子

2023年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、耳うるさい「Z世代」とは何だろう。「Z」と言うからには「Y」もあるだろうと、検索すると、どうも、デジタル新世界に、初めて出合った1970年前後生まれを1世のX世代、その次の90年前後の2世がY世代、そしてミレニアム生まれの3世をZ世代と呼ぶらしい。
三代将軍家光が「自分は生まれた時から将軍だ」と言ったように、三代目はデジタル新世界の生え抜きの住人だ。三代暮らせば江戸っ子だから、「Z世代」は「デジっ子」だ。

何かと言えば「Z世代」と言う人には、新世界を「お任せします」の期待が込められている。「A toZ」の「Z」は、「もうこれ以上は無い」の意味で、旧世界との決別と、新世界の始めを告げる。ウクライナ侵攻のロシア軍が「Z」を掲げているのも、最後の戦い、必勝を意味しているのだろうか。別の意味で最後の戦いになるかも知れない。

旧世代が期待する「Z世代」は、ミレニアム世代だが、これは旧世代がバカにする「ゆとり」と重なる。「ゆとり」はダメだと、また詰め込み教育を始めたが、これは旧人類の蛮行だ。新世界には新世界の教育がある。
旧来の学校は、産業革命パラダイムに必要な画一人間を生産する工場であって、もうその時代は終わったのだ。
20世紀までの大量生産に必要な歯車人間ではなく、あらゆる情況に対応できる視点と発想を持った、生身で不揃いな個性を育てなければならない。知識や熟練は機械に任せ、その機械を使いこなせる、「必要に気づく」人間、好奇心を刺激する教育が求められる。

未来教育には記憶力や処理能力は無用だ。そんな能力で選別する受験や大学など、もう要らない。日本の大学が、世界ランキングで下位なのも、世界レベルの発想を育てる環境が無いからだが、世界の大学が新世界に対応しているとも思えない。
ミレニアムのデジタル新世界には、情報の空気に共感の陽が溢れ、AIの大地に未来が育つ。知識や技術はAIの土壌に過ぎず、何をどう作付けするかの判断を人間がする。
この未来を想像できない旧人類には、未来教育など理解できない。

「ゆとり教育」は未来教育ではないが、少なくとも新世界に必要な人間を殺さない。学力競争の詰め込み教育は、集約農業で「御田植え祭」を行うようなものだ。
画一教育でプログラミング教育をしても、果たして何の役に立つのだろう。プログラム思考は無駄ではないが、害になることもある。
プログラムの基本は整理とアイデアだが、未来に必要な、不合理から答えを導き出す飛躍的発想、洞察力が削がれる可能性もある。つまりAIに追いつけない。

デジタル時代の新教育
デジタル新世界で必要なことは、適度な協調性と共感力、生存意欲、好奇心、想像力、創造性など、あらゆる束縛からの解放であり、それは学校とは逆の、自然の中で身につく人間力だ。そういう意味で学校は、遊びの場としては今後も必要かも知れない。
産業革命パラダイムで必要とされた人間の能力を、全て、ロボットとAIが行うようになれば、知識を積み重ねて優秀な歯車になる教育はむしろ害になる。
個性と人間力の教育には、好奇心そのものから拡張していく「オンデマンド学習」が効果的だ。例えば、虫に興味があれば、生物、化学、数学が必要になり、その疑問を拡張することで多角的な能力が身についていく。学校に集めて同じ事をさせるのではなく、個々の子供の興味に従って学んでいく。専門分野でも、資格や職業ではなく、個人の能力を人工知能に吸収し、誰でも利用できるようにする。当然、金を得る為の職業などそれ以前に無くなっている。
既に、250年の産業革命パラダイムは終わった。過去に築いた風景と常識で、よかれと思って考えることは、ほとんど害にしかならないだろう。
大航海時代に世界が繋がり、産業革命時代に社会構造が変わった。これからの250年は人間の概念が変わる。


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