魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

勝つと思うな

2007年09月15日 | 占いばなし

「勝つと思うな思えば負けよ」も「自分を疑う」に通ずる。
自分の意志と能力を信じることの「小ささ」を説いている。

人間の能力の限界まで行った時、神の手、運命の力の存在に気づく。
その存在に身をゆだねることが「人事を尽くして天命を待つ」ということだとわかる。
ひたすら「ガンバル」ばかりでもダメなのだ。
かと言って、「天命を待つ」ばかりでもダメ。
「果報は寝て待て」は、人事を尽くした上でのことだ。

「負けよ」とはもちろん、負けようとすることではなく、勝負にこだわるなと言うことで、捨て身になることであり、己を捨て神と一体になることだ。これが本当の意味の「運を引き込む」ことで、たまたま勝ったことを、得意になって言うセリフではない。

そういう意味で、負けた時に泣いて悔しがるのは、修行が足りない。
人事を尽くして天命を待ち、勝敗は時の運・・・と淡々としているのが達人というものだろう。その「振り」をする人もいるが。

こういう心構えは、科学的にも裏付けがあるようだ。
集中力とα波の相互関係で、リラックスしている時と集中している時はα波が出て、やる気満々の時は減少する。つまり、勝とうという邪心があれば集中力は減退する。

占いも同じようなことが言える
当てようとすれば当たらなくなる。淡々と、あるがまま為すがままを見守っていると、自然に先行きは見えるが、固唾を呑んで見守られていたり、嫌なことを言うなよと構えられたり、何とか良いことを言って上げたいと思ったりすると・・・当たらない。
だから実践鑑定では、当てることより、ためになることに重きを置くようになった。
当てようとして当たらない、最たるものは、博打だ。競馬の星でも言ってるように、星は正しくても、儲けにはならない。欲のなせるワザだ。


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