(備忘録的、練習記録。10月9日現在)
出だしから12小節目までのペダリングは概ね、決まった。
……のだが、弾くときは手元にほとんど全部気を取られているので、
響きが濁らないようにペダルを使えれば御の字だ。
3拍目に浅く踏むやり方を採用した箇所がいくつかあり、特にヤバい(汗)。
2拍目で完全に上げるのか、薄く残して3拍目に踏み直すかも含めて、
弾いていて瞬間的に迷うことがあって、本番は動揺するかもしれない。
勿論予め決めてはおくのだが、それでもいざ弾いたとき、
思った音と違う音が出ると、反射的に、足が迷うものなのだ。
16・17小節目、18・19小節目は、高いAs・Gという音連続のあと、
木霊のように低いAs・Gが繰り返され、面白い効果だと思うので、
せっかく自分でそう思うのなら、そう聞こえるように、
なんとかしろ、と思いつつ、ずっと出来ていない(爆)。
それに加えて、18小節目の高いほうのAsには装飾音がついているので、
これがまた心の中の理想の通りに鳴らなくて、欲求不満がたまる。
25小節目の中ほどから26小節目の終わりに向かっては、
パデレフスキ版は「<」のクレッシェンド記号が書いてあるのだが、
これが単に「音の大きさ」のことなのかどうかは、よくわからない。
ダン・タイ・ソンの演奏(エキエル版で弾いている)をCDで聴く限りは、
表面的にはデクレッシェンドのようにさえ聞こえる。
思うに、ここは音が「だんだんデカくなる」(爆)のではなくて、
音が「徐々に広がる」、もしかしたら「拡散範囲が広くなる」、
みたいな意味でのクレッシェンド記号かもしれないと思ったりする。
それと、あまりに姑息な話なのだが、私の場合ここでためておかないと、
このあと31小節目のffに向かって盛り上がらなくてはならないのに、
今の技術ではそこまでもたず、早くから最大音量になり、息切れするので
(こちらは30小節目にだけ、文字でcresc.とある)、
26小節目までと、27小節目以降をどういう配分でどう弾くかは、
もっと考え、かつ、それを忘れないようにしないといけない(汗)。
いつも足りなくなってからシマッタと思うような、
聞き苦しいことを繰り返していて、性懲りも無いとは私のことだ。
37・38小節目、39・40小節目のスラーは、楽譜の通りだと
私の場合、全くスラーにならない(爆)ので、ここは指使いを変えるか、
諦めてペダルに頼るか(泣)、難しいところだ。
それにここがまた、16・17小節目、18・19小節目と同様に、
高いAs・G→低いAs・G、のフレーズが和音になったかたちで再登場しており、
ということは上の声部だけはどうしてもスラーにしないと、
再現されている意味がないだろうと思う。
……できん、って(殴)。
45小節目からは、4小節ずつの音楽が変奏曲のように展開されるが、
和声感を含めて、手を変え品を変えの念入りな仕掛けがあるので、
それに左手の音の動きも考えて弾こうとすると、
私の能力で同時処理できる量を超えており、頭がハゲそうになる。
57・58・59小節目はずっとクレッシェンドして行くと書いてあるが、
これこそ、音量の問題というより、感情の高ぶりの記号だろう。
そのあとは、もうどうしてこういう和音を思いつきましたかと
訊ねたくなるような面白さ(泣)だ。
各声部、別々に弾いてみると気が変になりそうなのに、
合わせてみると絶妙のハーモニーで、ショパンの頭の中には、
一体どういう音が鳴っていたのかと。
69小節目からは左手に旋律が来て、低声部の独壇場なのだが、
私はもう、これ、手を交差させて右手で弾きたいくらいだ(爆爆)。
出したい音と、自由にならない左手とのギャップ、
合わないペダルに、それにウルサ過ぎる右手の和音の世話、
これらを同時になんとかしようとするのは、至難だ。
そして81小節目からが、まさにショパンの天才はここにありというか、
エチュード「別れの曲」を昔ちょっと弾いたときにも感じたことだが、
どないしたらこんなキショクの悪い和音進行を編み出せたのか、
一体それ何調が何調になって?という8小節が続き、
私の演奏では、普通に弾いているつもりでも現代音楽さながらだ。
聴く人が聴いたら、私が分析もせず理解もしないままで、
ただ楽譜をなぞって弾いているだけだということが、わかるだろう(汗)。
この和音のところから、息の長いクレッシェンド3小節、
次いでデクレッシェンド4小節という構成になっており、
曲としては実質的に、最大音で最高潮に達したのち、収束に向かうことになる。
先にも書いた通り、私に把握できるような和声感覚ではないという気がするので、
かくなる上は、覚えるのみだ。読書百遍、意自ずから通ず(爆)。
とりあえず声部ごとに弾いて、どう動いているかちゃんと確認して、
途中からでも弾けるようにして、幾度も合わせてみるしかないだろう。
残りは後奏だ。
しかし私の感性の中では、どうもまだ、さっきの81小節目から8小節間を
本当の意味でのクライマックスだとは、完全には納得できていなくて、
できたら、101小節目のa tempoのところから、もう一花咲かせたい、
みたいな気分が、どうしても、あるのだ(汗)。
もちろん、そのように弾くことは可能だと私は思っている。
105小節目からの下降音型はデクレッシェンド指定になってはいるが、
最後の108・109小節目には何の指定もないから、
明るさと強さのある音で、最後を鮮やかに締めくくっても良い筈だ。
a tempo以降、音型は昇る→降りる→昇るになっているのだし、
全体として駆け抜けるように、ジェットコースターか何かのように、
華やかにエンディングに向かう方法は、「あり」だと思う。
だがしかし不幸なことに、今の私の技術では、
「最後に一花咲かせたる!」の勢いで、しまいまで弾ききることは無理だ。
途中までは勢いづいて弾くことができても、
情けないことに、108小節目と109小節目にまたがるアルペジオを、
強い音で疾走するように弾くことは、私の手では出来ないのだ。
100発100中で最後が不協和音になり、台無しになること請け合いだ。
では最後だけ丁寧に弾くか?とも思ったが、それはやはり格好悪い。
イケイケ~!!と弾き始めたのに、フィニッシュ前に意気消沈しとる(大汗)。
なので、私は仕方が無いから次善の策として、
…いや、本来はこっちが楽譜からはあり得べき姿なのかもしれないが、
「一花咲かせる」考えは捨てることにし、a tempo以後は、
美しい後奏の最後のきらめきとして、飽くまでも優雅に名残を惜しみ、
もちろん107小節目まで支配しているデクレッシェンドの流れにも逆らわず、
最後はそっと、綺麗に、消え入るように弾こう(=弾くしか無いやんか)、
と思っている。
だけどそれでも、そのまま素直に終わるのはイヤだ。
何がイヤなのかよくわからないが、どうしても最後に何かしたい。
ので、最後は、楽譜では同じ音と休符でそっくりの二小節になっているが、
私は、110小節目と111小節目では、少し違うことをしよう、
と今は思っている。
ショパンがそんなことをしなさいと言ったかどうかは、
既に私の眼中になくなりつつあり、不遜の極みだ。
この、ヒトよりひとつよけいなことをしないと帰れない性格が、
これまでの人生でどれだけ災いしたことだろうか(爆)。
……あざといことやって、最後の最後で失敗しないと、いいけどねえ(涙)。
全体として、眼高手低というか、耳高手低の状態で、
思っている理想はある程度はっきりとかたちになっているのだが、
私の手足は、それを実現するようには動いてくれない。
出てくる音のしょーもなさに落胆することの連続だ。
それでもせめて、迷いのある箇所は、例えばエキエルなら何と言っているか、
コルトーはどうすると言い残しているか、この際、聴いてみようかしらん。
ちなみに、全音にはもう聞いた(逃)。
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