転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨夜は、市内で遠藤郁子氏のリサイタルがあったので、出かけた。
私は不勉強なので、遠藤氏のイメージは長らく80年代で止まっており、
見事な経歴と知的な雰囲気を持つ、豪華なドレスをまとった演奏家、
という印象が最近まで変わっていなかった。
ところが、ポゴレリチが縁で知り合った、とある方から、
ここ20年ほどの遠藤氏が大きく変貌を遂げられたことを教えて頂き、
また別のポゴ仲間のひとりであった方から、奇しくもほぼ同時期に、
一度遠藤氏の実演に接してみたいと思いつつ果たせていない、
というお話を伺うことになり、私は遅まきながら、
現在の遠藤氏のあり方を、知ることになった。

23年前、乳がんを告知され、手術・療養・復帰を経て、
遠藤氏は今や、その独自の霊感に貫かれたショパン演奏をもって、
自身の芸術を世に問うピアニストになられていたのだった。
およそ、命や死と向き合うことのない芸術家は居ないとは思うが、
遠藤氏は、揺るぎない、徹底的な死生観を持たれており、
ショパンの残した言葉や、あの世に繋がる人生というものを
「音魂(おとだま)」として表現する境地に立たれていた。


遠藤郁子 ピアノ・リサイタル
2012年10月12日(金)18:30開演 広島県民文化センターホール

「ショパンの遺言」
ショパンの見たあの世。能のあの世 そしてピアニストの見たあの世。

前奏曲 第7番 イ長調 作品28-7
幻想曲 ヘ短調 作品49
練習曲 第3番 ホ長調「別れの曲」作品10-3
バラード 第1番 ト短調 作品23
スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31

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マズルカ 第47番 イ短調 作品68-2(遺作)
マズルカ 第50番 ヘ長調 作品68-3(遺作)
マズルカ 第1番 嬰ヘ短調 作品6-1
マズルカ 第2番 嬰ハ短調 作品6-2
マズルカ 第5番 変ロ長調 作品7-1
マズルカ 第13番 イ短調 作品17-4
マズルカ 第23番 ニ長調 作品33-2

練習曲 第10番 ロ短調 作品25-10
練習曲 第11番 イ短調 作品25-11「こがらし」
練習曲 第12番 ハ短調 作品25-12

アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22

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アンコール
 夜想曲 第20番 嬰ハ短調 遺作
 夜想曲 第5番 嬰ヘ長調 作品15-2
 ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53「英雄」


ステージには能舞台がしつらえられていたが、
実際の能楽が披露されるという趣向ではなくて、
遠藤氏の演奏そのものが、そこで奉納されたのだった。
登場した遠藤氏は、白いまっすぐな髪と、清らかな印象の和服姿だった。
能舞台でピアノを弾きたい、というのが遠藤氏の夢であったそうで、
それが実現できたことを喜んでいると、ご本人のお話にもあった。

「命には終りあり、能には果てあるべからず」
と世阿弥は『花鏡』で述べているのだが、
命の終わりを見つめたとき、遠藤氏のピアノが能の世界に通じたことは、
芸術としてごく自然なことだったかもしれないと思った。
この世での時間には限りがあるけれども、
ショパンの残した音楽が果てることはなく、
演奏で実現される世界も、おそらく無限へと繋がっているのだ。
私のような平凡な聴き手は、独力では到底、それを覗くことなど叶わないが、
遠藤氏のような弾き手に導かれれば、ふと、その片鱗くらいには、
触れることができそうだった。

ときに、昨夜のプログラムはオール・ショパンだった。
私は以前からときどき書いてきたように、決してショパンが好きでなく、
その理由は、ショパンの根底に、得体の知れない怖いものが渦巻いていて、
出口が無く救いが無く、私はそれを直視することに耐えられないからだった。
それに較べて、どうして私がベートーヴェンを偏愛するかというと、
彼の音楽は、重い苦闘を執拗に描いているときでも、どこかで必ず、
「神様は居るんだ」と言ってくれているのが、感じられるからだった。
私は、光や打開のないところには、長くは居られないと思っていた。
しかし昨夜の遠藤氏のショパンには、不思議な灯火が見えていた。
人間の煩悩や醜悪さも、天の高いところではこのように浄化され得る、
という、理屈でなくひとつのイメージが、私の脳裏に浮かんで来た。

あとでプログラムを読んだら、冒頭の「ショパンの遺言」という
遠藤氏の文章に、ご自身の闘病と再生についての言葉があり、
「当時、私の見たあの世は、とても暗く、重いものでした。しかし一昨年東京で開いた『ショパンの遺言』160曲全曲演奏の経過の中で、「あの世は亦、明るく軽やかなもの」という気づきもいただくことができました」
と書かれていた。
そうであれば、私の感じた灯りは、遠藤氏のご覧になっている、
明るく軽やかなあの世へと通じる道を照らすものだったのかもしれない。

当夜の使用楽器はShigeru Kawai(SK-EX)で、
音は全体的に、限りなく柔和な響きだった。
かなりソフトペダルを多彩に使用されているように感じられた。
一方で、バスは深く響き渡り、この年齢の女性の演奏とは
音だけでは容易に信じられないような、生命力が漲っていた。
二度目のアンコールのために登場され、愛らしいほどの微笑みで、
「では元気よく英雄ポロネーズを弾きます」
と仰ったときには本当に驚いたが、
これがまた、そこまでの演奏の疲労など微塵もないどころか、
弾けば弾くほど天から力を与えられるかのような「英雄」だった。
魂だけになったものは、もはや疲弊することなどないのだった。

単にピアノを楽しんだ、という次元ではない二時間だった。
遠藤氏が静かに、しかし力強く掲げて下さる灯火を頼りに、
私は永遠へと果てしなく連なる音楽のあることを教えて貰った。
けれども、時間の経過とともに、現実の演奏は進行し展開し、
やがて最後の曲になり、とうとう、リサイタルは閉じられた。
それは、遠藤氏の肉体はまだこの世にあり、
私たちもまた、時間に限りのあるこの世に生きている、
ということに、ほかならなかった。
私は束の間、果ての無い音の世界に誘われ、それを垣間見たが、
まだ、あちらへ渡るときは来ていない、ということだった。

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