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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



実は私は90年代になってから、日本の若手劇団の演じる、
『ある馬の物語』を一度だけ観たことがあるのだが、
それがどこの劇団のもので、誰が主演者だったか
記録を残していないので追跡不可能になってしまっている。
のちにこんな日記を書くことになるとわかっていたら、
きちんとメモして大事に取っておいたのに(^^ゞ。

インターネットで探せば何かあるかと検索してみたら、
この作品は日本の劇団でも結構、これまでに上演されたことがあり
(そのために私の探していた劇団のことは結局わからないのだが)
最近では、このようなもの↓があったのだと判明した。
公爵の物語を中心に描かれたのかな?という印象で、
演出はかなり違ったのかもしれないが、観てみたかったなと思った。

劇団シアタージャパン本公演 創立7周年記念ミュージカル ホルストメール

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先日来、ロシア演劇の話題をここに書いていたら、
大学でロシア文学を専攻なさった某氏からメールを頂戴したのだが、
その方とのお話で、当時、ソ連が日本で、かなり警戒され、
場合によっては毛嫌いされていた国だった、ということを、
私は今更ながら思い出した。

私がロシア演劇を知るようになったのは83年なのだが、
これは大韓航空機撃墜事件の年だった。
ミハイル・ゴルバチョフの書記長就任が、これより後の85年だから
(ブーニン優勝の第11回ショパンコンクールの年でもある)、
ソ連がペレストロイカによって大幅に改革されて行くのはまだ先で、
八十年代前半といえば、日本人にとってソビエト連邦は、
依然として脅威以外のなにものでもなかったのだろうと思う。

メールを下さった方のお話によると、大学を決めるときに、
ロシア文学科のあるところに行きたいと言ったら、
ご家族が揃って大反対で、
『文学なら、国文でも英文でも仏文でもいくらでもあるのに、
なぜ、よりによって露文なのか、卒業しても困るだろうに』
と、ご両親とも大変な心配をなさったということだった。

そうなのだ。
実はうちの母も言ったのだ。
母のは、もっと単刀直入だった。

女がロシア語だなんて。アカだと思われて縁談に差し支える

私がレーベジェフだとかバシラシヴィリだとかに心酔して、
春休みに帰郷してもロシア語のテープばかり聞いていたので、
母は、とうとう私が赤軍派に入ったと勘違いしたらしい(爆)。

親が教養科目や第二外国語のことにまで口を出すかと、
私は呆れて相手にしなかったのだが(←親不孝者は昔から)
今回のメールで判明した通り、よそのお宅でも大なり小なり、
ロシアと聞くと親御さんはご心配になり、反対なさったということなので、
うちの母の考えたことも、あの世代の人としては、
まあ標準的なものだったのかなと今にしてわかった(^^ゞ。

その点では、19歳だった私が、ソ連やロシア語に対して、
全くなんの偏見も持っていなかったことは、自信を持って断言できる。
そういう意味では私は幸せだった。
なんら先入観を持つことなく、ただソビエト演劇の素晴らしさだけを
真っ新な状態で受け入れることが出来たのだから。


・・・とゆーか。
私はあまりにも不勉強だったので、ソ連がどういうものか、
自分なりの把握すら、全然、できていなかったのである(爆)。
なにしろ、聖ワシーリー寺院の写真をみて
美味しそうやな(^o^)」と思っていた程度の学生だったのだから。

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ホルストメールの生涯を通して、作者は馬の視点を借り、
人間社会を愚かさを暴露し、それを批判しているが、
同時にそこには、人間を含めた、この世に生きるものすべてに対する、
作者の深い慈しみと暖かい視線があるのを、私は強く感じた。

『まだら』の意味を知らなかった、いたいけな子馬は、
それを理解するより先に、まず過酷な現実に直面せねばならなかった。
人間たちは彼を『恥さらし』『百姓みたいだ』と罵り、
初恋の雌馬ビャゾプーリハも『あんた、まだらだもの。怖い』
と言い残して白馬の少年ミールイのところに行ってしまった。
彼に、世間並みの幸福が何一つ許されなかったのは、
彼自身がなんらかの罪を犯したからではなく、
ただ、彼が『まだら』に生まれついたためだった。

トルストイはこれを、直接的には、農奴の生き様として書いた筈だ。
トルストイの生きていた当時の現実社会において、
農奴を初めとする貧困層の生活の実態と、その改善への願いを、
おそらくこの作品の中に織り込んだものだと思われる。
しかし同時に、これは普遍的なテーマとしても読むことができるのだ。
『まだら』は、ほかの多くの言葉に言い換えることが可能だろう。

例えば、どこの国でも経てきたであろう人種差別、女性差別の問題、
或いは日本で我々が今も経験する、民族差別や差別の問題、
いずれの場にも、今もなお厳然として階層の別があり、不条理がある。
19世紀のロシア貴族だったトルストイの書いた、一頭の馬の物語の中に、
異国の異文化の中にいる我々が、今も容易に自分を投影することができる。
だからこそ、まだら馬ホルストメールの生涯が、我々の胸を打つのだと思う。

また、ホルストメールの中に信仰の物語を見いだすこともできるだろう。
生まれた翌朝、厩頭に後足を叩かれたことに始まって、
ホルストメールは生涯に渡って、人間や他の馬からの打擲を受けたが、
彼はついぞ、それらに暴力をもって刃向かうという発想を持たなかった。
彼は、公爵の与えてくれた僅か二年の輝かしい日々に感謝こそすれ、
病んだ彼を見捨てた公爵を恨んだことなどなく、最後まで愛した。
過去の栄光に奢ることがなく、逆境にあっても誰をも妬まなかった。
悲しみに心乱れることはあっても、明日を思い煩うことはしなかった。
その生涯の大半を誰からも顧みられず、何を主張することもなく、
ただ誠実に素直に生きた。
そして死後は皮や肉や骨のすべてが、あとに生きる者達の糧となり、
見知らぬ者たちの命となって受け継がれた。
ホルストメールは、一見みじめでも、堂々たる老馬だったのだ。
彼の生涯こそは、常に最も根元的なあり方で、
神の御旨にかなったものだったと言えるだろう。

これとある意味で対照的に描かれるのが、
彼の飼い主となったセルプホフスコーイ公爵の物語だ。
ホルストメールと出会ったときの公爵は、
軽騎兵将校としての高い地位と破格の年収、広大な領地を持ち、
美しくしなやかな肉体と何者をも恐れぬ気性に恵まれた、
輝くばかりの25歳だった。彼に心惹かれぬ者は無かった。
彼はまた、人を見る目も、馬を見る目もあったから、
百姓のフェオファーンを自分の御者頭に取り立てたのと同様に、
作業馬のホルストメールを買い取り、自分専用の乗用馬に仕立てた。
公爵はこの世の、ありとあらゆる幸福を持っていた。
しかし運命が狂い始め、それらを次々と失ったとき、
最後に彼は、何の役にも立たない、みじめで哀れな老人になった。
彼の持っていたはずの幸福は、実はすべてが虚飾であり、
何一つ、彼の魂を救うものでは無かったのだ。

(続)

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「生まれたとき、私は『まだら』の意味を知らず、
自分を、ただ『馬』だとだけ思っていました」
と、老馬として語り始めたレーベジェフが、
ヴァイオリンの音楽のあと、ふとひざまづいて子馬時代に戻るのは、
本当に魔法のような瞬間だった。
なぜ、舞台の上の人間を私たちは「子馬」だと思うのか?
舞台にいるのは、70歳に近い男性で、簡素な上衣とズボンという服装、
厩を表すに足るほどのセットも無いというのに!

『ある馬の物語』を観ながら私が最も強く感じたことは、
演技というのは、視覚的なリアリティを追求するよりも、むしろ、
観る側の感覚を呼び覚ますことのほうが大切なのだ、ということだった。
「迫真の演技」というのが一般にあるけれども、
それは現実と寸分違わぬものをかたちで再現することではなくて、
観客の感覚を捉えて根底から揺さぶるようなものを、
場合によってはリアリティとは無縁の動きを通してさえ、
表現し得ることを指すのだ、と私は思った。

レーベジェフのホルストメールは、馬のメイクなどしていないし
(まだらを暗示する舞台化粧は、多少、施してあったが)、
見た目として馬を連想させるような、四つ足の動きもしないし、
衣装には、たてがみや蹄(ひづめ)に相当する部位もなかった。
御者頭のフェオファーンに手入れして貰う場面のパントマイムは、
ヒゲをそられたり靴を磨いて貰ったりする動きに近かった。
ホルストメールが馬橇を引いて街を颯爽と駆け抜ける場面は、
馬群を演じる役者たちのコーラスが、彼の軽やかな足取りを表現した。
競馬場での彼の競走は、見守る観衆たちの視線と興奮によって演じられた。

つまり、舞台上には、馬のカタチをしたものなど一切、登場しなかった。
例外は、馬役の俳優たちが片手に持っている尻尾の毛束だけだった。
にも関わらず、この舞台を難解だと感じた観客は、居なかった筈だ。
もともと、ソビエト時代、演劇は特別な階級のための教養ではなく、
ごく普通の、市民生活に密着したものだった。
なんらかの素養がなくては理解できないような、
抽象的で独り善がりの芝居など、支持を得られよう筈もなく、
庶民の素朴な視線に応えるために磨かれてきたのが、
この、ボリショイ・ドラマ劇場ならではの表現方法だったのだ。

パントマイムというもの自体、この舞台にあっては、
何かの動きをまざまざと見えるように描き出すから見事である、
という次元のものではなかった。
観客が、単にパントマイムとしての技巧に感心しているうちは、
それは芸ではあっても演技ではなかったのだ、と私は思った。
演技における本当のパントマイムとは、
ここでのホルストメールや公爵やフェオファーンがしてみせたように、
観客に何らかのパントマイムだということすら意識させないものなのだ。

ホルストメールの死もまた、パントマイムで演じられ、
彼の誕生の場面、競走の場面などが切れ切れに再現され、
死んでいく彼の上には、彼が生まれたときに飛んでいたのと同じ蝶が、
ひらひらと儚げに舞い降りてきた。
かつて、無垢なホルストメールはその蝶を見て恐れ、
「ママー!」と母親を呼んだものだった。
今、死に瀕したホルストメールは、その、元来た道を、
無言で、静かに、穏やかに、帰って行こうとしていた。

(続)

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83年9月の、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場初来日で、
一番の人気を呼んだ演目は、桜井郁子氏によれば『ある馬の物語』だったそうだが、
私がこれを最初に観たのは、84年の確か3月頃、NHKの録画によってだった。
それがあまりにも素晴らしくて、私は芝居を観て打ちのめされるという
初めての経験をしてしまい、それからはこの作品と役者達の虜になった。
だから、88年に彼らが再来日したときには、もう矢も盾もたまらず、
東京グローブ座まで、この作品を見に行ったのだった。

原作はレフ・トルストイの短編小説だが、決して有名ではなく、
日本人でこの原作を読んだことのある人のほうが少数だろうと思う。
ロシア文学の知識など無いに等しかった私は、
こんな作品があったことすら、当時は全く知らなかった。

脚色はM.ロゾーフスキイ、演出はG.トフストノーゴフで、
ホルストメールを演じたE.レーベジェフは、
80年代には既に、60歳代後半にさしかかっていたベテラン俳優だった
(この人は『ワーニャ伯父さん』のほうでは、
ワーニャの妹の夫で俗物の、セレブリャーコフ教授を演じていた)。

馬を演じる俳優たちの衣装は、古びた薄い色のズボンと上衣、
それに馬勒(ばろく)をイメージさせる革製のバンドを、
額や上半身につけていた。
そして、彼らは片手に、馬の尻尾を表す毛束を持っていて、
これを始終振り上げたり、下肢に打ち付けたりすることで、
馬の雰囲気を演出すると同時に、感情表現もしていた。

全体は二幕構成で、まずジプシーの楽団による短い序曲から始まった。
最初の場では、舞台脇に粗末な身なりの馬丁が居眠りをしていて、
中央に馬群と、老いたホルストメールがいた。
物語は、この年寄りの、まだらの去勢馬が、自分の若き日を振り返り、
ほかの馬たちに話して聞かせるかたちで進行するのだが、
馬群の動きはしばしば郡舞になり、ホルストメールの独白には
彼らのコーラスが呼応し、楽団員の楽器のソロがそれに交じった。
レーベジェフ自身、オペラ歌手のような良い声で語り、歌った。

一幕目で語られるのは、ホルストメールの誕生から、子供時代、
初恋の不幸な結末、公爵との出会い、公爵家での晴れがましい生活、
二幕目では、競馬での優勝から、一転して公爵家での生活の破綻、
以降、各地を点々として最後にもといた将軍家に戻り、そこで死ぬまで、
それらが、息をもつかせぬほどの展開で一気に演じられた。

レーベジェフの演技は圧巻だった。
馬を表現する言い方として我々は、しばしば、「目が優しい」
ということを言うけれども、レーベジェフのホルストメールは、
まさにそのような、おとなしく優しい目をしていた。
ホルストメールは馬であったがゆえに、
常に運命を受容する生き方しか知らなかった。
目を掛けてくれた公爵には精一杯の愛情を持って応え、
彼を踏みにじった仲間の馬たちに抗議することもなく、
自分を害する人間たちに対してさえ、恨むという発想が全くなかった。
何を所有する欲望も持たず、去勢馬だったために肉欲とも無縁で、
病んだときも、人間なら自殺を考えるような状況下におかれたときも、
期待もせず絶望もせず、彼は、ただ、淡々と生きた。

このホルストメールと、彼の飼い主となったセルプホフスコーイ公爵
(演じたのはO.バシラシヴィリ。『ワーニャ伯父さん』の主演者)以外は、
ほぼ全員が複数の役柄を演じる構成になっていて、
そのすべてに、演出者の綿密な計算が貫かれていた。
例えば、ホルストメールの初恋の雌馬ビャゾプーリハを演じる女優が、
公爵の愛人マチエの役をも演じることになっていたし、
ホルストメールからそのビャゾプーリハを奪った白馬のミールイ役と、
公爵からマチエを寝取った情夫役は、やはり同じ俳優によって演じられた。
そのことによって、ホルストメールと公爵の、それぞれの生涯が、
一対の、パラレルなものであり、互いを映す鏡のようなものであることが
非常に明確に表現されていたわけだ。

これがどんな舞台だったかについて、どう描写するのが適切なのか、
私はここまで書いた今でも、正直言ってわからない。
それほどに、多重構造の、巨大で濃密な舞台だったと思う。

セットそのものは簡素で、役者のパントマイムが主体だった。
ほとんどの役者は変幻自在に馬の役も人間の役もやり、
更に歌も踊りも組み込まれていた。
また、音楽は、舞台上にジプシーの楽団員に扮した音楽家たちがいて、
話の登場人物としてもBGMとしても、全編、生演奏のかたちで参加していた。
それらのすべてが、実に見事に融合し調和を保っていて、
舞台は「ストレート・プレイ」とか「ミュージカル」とかいう分類とは、
完全な異次元にあったと思う。

(続)

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主人の出身校である某私立男子校のオープンスクールがあり、
せっかくの機会だからと、見に行ってみた。
ガタイの良い娘にハーフパンツとTシャツとオーバーシャツを着せたら、
男の子にしか見えず、男子校の入試説明会参加者として、
我々親子は、見た目も全然おかしくなくなった(爆)。

ここは、もともとは広島藩藩校として始まった男子校で、
実は、私の父と叔父もここの卒業生だ。
父が原爆にあったあと、秋になってようやく登校してみたら、
同級生が何人も亡くなったことがわかった、
……という話は、この学校が旧制中学だった時代のことだ。
きょう、行ってみたら校庭には原爆の慰霊の、大きな石碑があった。

夫「市内の学校は、大抵、こういうのがあるよね・・・」
娘「ヒロシマだもんね」
夫「んっ?」
私「なあに?」
夫「ああ、『慰霊』て書いてあるんか。そうか」
私「なに」
夫「いや、この真ん中の紙、『霊』って見えてさ。
 誰かがイタズラで書いたんかと思うたが、『霊』じゃった」

なんだそれは。
ここの生徒はそーゆーヤツらなのかと、雰囲気を垣間見た思いだった(--#)。

主人の学生時代は、中等部は詰襟の学生服で、
高等部になると制服がなく、全くの私服だったそうだが、
今は、当時とは制服のデザインが変わり、
中高と六年間、着用するように決められているようだった
(後日記:高2高3になると着用は自由で、私服でも良いそうだ)。
また、大学入試を目指しての勉強合宿のことなども、
学校案内の展示で写真を交えて説明されていた。

夫「制服か。変わったのぅ」
私「袖口の白ラインだけは引き継いだんだね」
夫「勉強合宿かい。こーゆーこと、するようになったとは」
私「いいじゃないの。勉強熱心で」
夫「ワシらの頃は、こんなせわしないことはしよらんかったで」

六年間、バンカラな校風の中で勝手気ままに、
楽しく遊んで大笑いな青春を謳歌した主人は、
ご多分に漏れず、お友達と仲良く浪人組だったそうだ(^_^;)。

きょうは売店と学食も開放されていたので、勿論、行ってみた。
主人が在学していた頃、売店をあずかっていたのは中年の男性・女性で、
生徒らは彼らをこっそりと「ばいじじ」「ばいばば」と呼んでいたそうだ。
これは「売店」の「爺」、「売店」の「婆」という意味だ。

私「ご夫婦だったのかしら」(←どうでもいいことだが(^_^;))
夫「いや。そうではないというウワサじゃった。
 とにかく感じの悪い『ばいじじ・ばいばば』じゃった」

それは、キミらがやんちゃボウズばかりで、
売店職員の方々も手を焼いていらしたということでは(^^ゞ?
ともあれ、さすがに年月が経過したので、ばいじじ・ばいばば御両名は、
今はもうお勤めではありませんでした(^^ゞ。

というわけで、昔に較べるといろいろと変わったことはあったけれども、
学食に寄って、昼食をとってみたら、
「うどんの味が変わっとらん♪」
と主人が喜んでいた。
娘も唐揚げ定食を食べ、
「おいしいね~(^o^)。どこの学校もこんな学食あるかな~」
と感心していた。

とても雰囲気の良い学校で、娘も学食を気に入ったようだったし、
ぜひ入学させたいと思った(爆)。

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教員給与、大幅削減求める=基地周辺費の見直しも-財政審(時事通信)

『2006/10/20-20:25 教員給与、大幅削減求める=基地周辺費の見直しも-財政審
財政制度等審議会(財務相の諮問機関)は20日、財政制度分科会の会合を開き、2007年度予算の文教科学費や防衛費などについて議論した。地方公務員に比べ高水準な公立学校の教員給与では、早期・大幅な引き下げの必要性を確認。地方自治体への補助金などの基地周辺対策費も、関連が薄い事業の見直しを求めた』

納得できる給料の貰えない仕事には、決して人材は集まらない、
というのは大原則ではないだろうか?
逆を言えば、多くの職種では、もし給与面での待遇が破格に良かったなら、
あらゆる有能な人材が多数、競って応募して来るだろうと私は思っている。

教育というのは非常に大切な仕事だと思う。
親は子に教育を受けさせる義務があり、その義務教育期間中は、
保護者にとって、ほとんどの場合、公立小・中学校の先生方に、
子供を託すことになるのが現状だろう。
親個人や家庭ではできない教育をして貰うために、
将来を担う子供たちを、多くの親は公立学校の教員に預けるのだ。
そんな大切な場所に、最高の人材を確保しなくて、どうするのだ。

公立学校教員の給与の『早期・大幅な引き下げ』が本当に実現したら、
一体、どんな人たちが応募して来るのだろう。
たとえ自分の生活を犠牲にしても教育に一生を捧げる、
という奇特なお人が絶対にいないとは断言しないが、
少なくとも、一般の会社でも引く手あまたになるくらいに
能力の高い大学生ならば、わざわざ給与の下がる教員になど、
なりたいとは、まずは考えないだろう。

敢えて言わせて貰うが、
一般の地方公務員に較べて、教員の給与は高水準で当然だ、
と私は思っている。
それほど教育は重要な仕事だと思うし、
本来ならば、その高給に見合う、能力の高い人材だけを、
多くの応募者の中から選りすぐるくらいであって貰いたい。
児童・生徒に十分な学力をつけさせるための学識の面でも、
子供たちの心を理解し包み込むことのできる、人間性の大きさの面でも、
多方面からの多数の応募者がなければ、良い人材は確保できないのだ。

それと、これは現在、教職にある人たちの給与も引き下げる、
ということなのだとしたら、ますます問題だ。
減俸は著しくモラールを損なう。
現実にどの程度引き下げるのかわからないが、その額によっては、
転職可能な能力のある人材から、迷わず退職して行くだろう。
長らく最大の魅力のひとつだった年金制度も、
将来的には厚生年金に統合されるという見通しだから、
これでもう薄給にしがみついて教員をする必要はなくなった、
と考える人が増えると思う。

現行だって、実働時間数で計算したら教員の時給は結構、低いだろうし
(娘の学校では、5時で終わって帰宅なさっている先生なんか恐らく居ない)、
儲かるかどうかだけが基準なら、もともと教職を選んではいないと思うが、
それにしても教員だって、家族もあれば自分の将来の心配もするのだ。
待遇が悪化する職場に積極的にとどまりたい希望はないだろう。
教育活動そのものに熱意があって、継続したいと考えるなら、
それは、この際、公立学校でなくても出来るわけだし、
自分を安く評価するより高く評価してくれる場所でやりたい、
と考える方が普通だ。

私学人気に圧され気味の公立学校の立て直しのために、やるべきことは、
例えば採用試験の見直しや、教員免許の更新制度内容検討などであって、
断じて、教員給与の引き下げなどではない、
それどころか、こういう大事なところにこそ、もっと税金使えよっ!!
と私は少々、頭に来ている(^_^;)。

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今朝、学校に行く娘をバス停まで送るのに一階まで降りてきたら、
エレベーターの前で、ゴキ男が倒れていた。
一瞬、官舎のゴキ男が私を訪ねてここまで来たのかと思った(爆)。

彼はきっと、昨夜、ようやくこのマンションに辿り着き、
セキュリティを突破したまでは良かったが、
エレベーターに乗ろうとしたところ、
人間の気配がしたので素早くマットの下に身を隠し、
そこへ何も知らずにどっかのオッサンが来て、
上から無造作に踏みつけたのだろう。可哀相に。

・・・などと、私は頭の中で思ったが、口には出さなかった。
すると娘が、私の思考を読んだようなことを言った。

娘「ゴキ男が死んどる」
私「うん」
娘「偲ぶ会をしよう」
私「『偲ぶ』って、あのゴキ男、アンタの知り合いか?」
娘「いや。じゃあ、『悼む会』」

すれば

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先日話題にした、アルティナイ・アスィルムラートワの映像を
あれから、YouTubeで新たに見つけた。

『海賊』より パ・ド・トロワ(YouTube)

説明にもコメントにも、アスィルムラートワの名は書かれていないが、
どう見てもこの細いシルエットは彼女だし、
海賊ズボン(^_^;)のアリ役をしているのはルジマートフだと思う。
あとのひとり、コンラッド役をしている男性は、
誰なのか、わからなかった。すみません<m(__)m>。

先日の『バヤデルカ』に関しても私はいろいろ誤解していたものだが、
『海賊』に至っては、全幕で見たことが一度もないので、
私は、この場面はメドーラとアリのパ・ド・ドゥだとばかり思っていた。
実家にある、キーロフの昔の記念イベントみたいな公演の録画でも、
アスィルムラートワとルジマートフの『海賊』はパ・ド・ドゥだし、
コンクールやガラで踊られる時だって、大抵、二人ではないですかね(^_^;)。
『海賊』より同場面のパ・ド・ドゥ(YouTube))
コンラッドも加わった3P版(殴)のほうが正式なのかな??

何にしても、アスィルムラートワの映像がまだ発掘できるかも、
と私は味をしめて、もっとほかにもないかと、YouTubeで探してみた。
それで判明したことは。

アスィルムラートワは、名前を正確に綴られることのほうがマレだ

ラテン文字では彼女の名は、
Altynai Asylmuratova
と綴るのが、公式的に正しいということになっている。
彼女は中央アジアのカザフスタン出身なので、
その名前も、多分カザフ語起源の、独特のものなのだろうとは思う。
が、YouTubeに関する限り、彼女の名前の表記は無茶苦茶だ。

Azimultova アジムルトーワ
Assilmatorova アシィルマトーラワ

似て非なる、・・・つーか、普通に別人だ。
そんな名前の別のダンサーがいたのかと一瞬、信じそうになった。

私はカタカナ名前に弱くて、よく読み間違えるのだが、
なんのことはない、ガイジンさん達だってやっぱり、
馴染みのない長い名前は完全に間違って覚えるのだ、
ということが、これでよくわかった。

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ホルストメールは、天性の俊足を持つ名馬だったが、
人間の嫌う「まだら模様」が体中にあったため、
幼少時から価値のない馬と見なされて、ろくな扱いを受けなかった。
将軍家の厩で生まれた彼は、初めのうちは「まだら」の意味を知らず、
ほかの子馬たちとたわむれて無邪気に成長したが、
年頃になって雌馬に恋をしたとき、馬主によって去勢されてしまった。

青春を一気に失ったホルストメールは、以来、いななくことをやめ、
考えることに多くの時間を費やすようになり、
生来が聡明な彼は、周囲の人間を観察することで、
人生というものに対して自分なりの洞察を得るようになる。

例えば、人間は自分がこの世で何をなしえたか、ということよりも、
自分が何をどれだけ持っているかで、幸せの度合いを計っている、と。
「私の」という所有格の代名詞を、
より多くの名詞に対してつけることのできる人物が、より幸福だ、
と人間は考える。
「私の家」、「私の土地」、「私の女」!
それでいて、その家に住んだこともなければ、
その土地を見に行ったこともなく、
自分のものだと思い込んでいた女が、ほかの男と通じていたりする!

そんなことを考えながら、日々、黙々と、
人間の作業に使われて暮らしていた若いホルストメールの前に、
ある日のこと、目の覚めるように美しく凛々しい公爵が現れる。
公爵は将軍のところに乗用馬を買いに来たのだったが、
将軍のすすめる血筋の良い処女馬や、見事な白馬の少年に目もくれず、
作業馬だったホルストメールの、素質の素晴らしさを一目で見抜き、
「私は、あの、きれいなまだらを買おう」
と言い放つ。馬主は呆れるが、公爵は意に介さず、それどころか、
「こんなきれいなまだらは誰も持っていない」
とホルストメールを賞賛する。そして公爵は言う、「私の馬!」と。

それからの二年が、ホルストメールの最も輝かしい日々だった。
公爵には美貌の愛人マチエと、美男の御者頭フェオファーンがいて、
ホルストメールは公爵邸の厩舎で馬として最高の扱いを受け、
その俊足を存分に発揮して、颯爽と真冬のモスクワを走るようになる。
つやつやした毛並み、見事に広い背中、矢のようにすらりとした脚!
公爵の乗った、籐作りの素晴らしい馬橇を引いて、
クズネーツキィ通りを行くホルストメールは、街中の注目を集め、
風のように駆け抜ける雄姿が、皆の羨望の的となる。

そんな二年目の冬の終わり、一行は公爵の趣味で競馬観戦に出かけ、
公爵の気まぐれから、ホルストメールが競馬に急遽出場することになる。
競走馬でないホルストメールと、騎手でないフェオファーンが組んで、
ホルストメールは居並ぶ名馬を鮮やかに抜き去り、見事な一等賞を獲得する。
人々は公爵を取り囲んで惜しみなくホルストメールを絶賛するが、公爵は
どれほど高値を申し出られても「私の友人ホルストメールは譲れない」
と皆の前で公言し、ホルストメールを抱きしめる。
これが、ホルストメールにとって、生涯最良の日だった。

最良の日は、続いて、最悪の日となった。
公爵の愛人マチエが、この競馬観戦の間に新しい男と逃げたのだった。
競馬のあとホルストメールは、すぐさま馬橇に繋がれ、
正気を失った公爵によって続けざまにむち打たれ、
愛人と情夫に27キロメートル先でようやく追いつくまで走りに走らされる。
そして、更に夜中までかかってどうにか公爵邸に彼らを乗せて帰ったあと、
ホルストメールは力尽き、病に倒れてしまう。

治療と称する行為で繰り返し痛めつけられ、
とうとう、もとのようには走れなくなったホルストメールは、
公爵家から出され、仲買人に売られ、まず、老婆によって買い取られた。
この家の御者が、老婆に折檻され打ち据えられては、厩に来て泣くので、
ホルストメールは、涙が塩辛くて良い味のものだと、このとき知った。
老婆が死ぬと、彼は呉服商人の家に、次いで百姓家へと売られ、
更に何かと交換でジプシーのもとへとやられ、
巡り巡って最後に、年老いて、もといた将軍家の土地に戻ってきた。
将軍家も代替わりして、既に若い伯爵が当主になっていた。

病み、老いたホルストメールは、若い力強い馬たちから小突かれ、
たびたび打擲を受けるが、抗議もせずに過ごしていた。
そこにある晩、当主と厩頭に介抱されるようにしてやってきた客人、
それが、あの、かつてホルストメールを見いだした公爵だった。
彼に絶頂のような幸福を与え、同時に、彼の破滅の原因ともなった、
美しく残酷だった公爵は、今や、足下もおぼつかない老人に見えた。

ホルストメールが惨めな日々を送ってきたのと同様、
公爵もまた、あれから凋落の人生を歩んでいた。
酒浸りで、無一文どころか死んでも返せないほどの借金がかさみ、
それでも公爵としての自尊心と、昔の栄光にすがって、
ただ自慢話を繰り返すことしかできなくなった彼は、
老いさらばえたホルストメールを見ても、気づかなかった。

ホルストメールは、自分同様に痛ましい姿となった、かつての主人に、
心からの慈愛と敬愛を込めてゆっくりと頬を寄せるが、彼は酔眼をあげ、
「私も、昔、こんな、まだらを、持っていた」
「乗り心地も力も素晴らしさも、あれに勝るものは知らない」
というだけで、ついに最後まで、
目の前のやせこけた馬がホルストメールだとは理解しなかった。

ホルストメールは静かに、哀れな公爵の後ろ姿を見送った。

その晩、ホルストメールは、疥癬が悪化して体中が痒くなり、
その様子を見た若い当主は、厩頭に「もう処分しろ」と命じる。
「また治療するんだろう・・・・」
とおとなしく従うホルストメールにナイフの一撃が加えられた。


ホルストメールが死んだあと、そのむくろはオオカミや犬が食い尽くし、
一週間後には、納屋の外に、頭骨と大腿骨が転がっていただけだった。
やがて季節が変わり、骨を集めている一人の百姓がやって来て、
この、大きな頭骨と二本の大腿骨を拾って持って帰り、
それを、彼の農作業の道具にして役立てた。

長らく皆の厄介者でしかなかった公爵が亡くなったのは、
それよりずっとあとのことだった。
その身分に相応しく、ぶくぶくの遺体は上等の軍服で覆われ、
真新しい高価な棺に納められ、しかるべく埋葬された。
しかし、彼の皮も肉も骨も、決して、誰の役にも立たなかった。


(「ロシア演劇の話」・続)

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