保護猫活動する隠居爺の野菜作りとスキーの日記そして病気の記録

冬場の60日以上はスキー、夏場はそのための体力作り&自給用野菜作り、そして保護猫活動と病気の記録も綴ります。

飲み屋ビル「ダイヤモンドタウン」が閉鎖する話

2020年10月11日 | 世の中のあんなコト、こんな事

長野の飲み屋街と言えば権堂町、その中心部に位置する
「ダイヤモンドタウン」の来年1月の閉鎖が決まったそうです。

地下1階、地上一部4階のテナントビルで
ピーク時には60店が入居していたものの現在は15店のみと言います。


(信毎WEB版より引用)

40年前の30代前半の頃は新車営業マンやサービスフロントに携わり
付き合いもあってここを中心によく界隈をうろついていました。

クルマ業界の前の職場の同僚だった愛称「山ちゃん」が転職して
クラブの雇われマスターになっていた1階の「潤」には
週1~2回は立寄っていたかも知れません。

今でいうところの「接待を伴う飲食業」です。

30代後半ともなると少し回数が減りましたが、その理由は
男性客の下心を適当にかわすプロのホステスではなく
もしかしたら、という期待をつい抱かせてしまう"素人さん"が
もてはやされるようになったからです。

昼間は会社勤め、夜は内緒でバイトという素人さんが多くなるにつれ
どこかに悲哀を秘めた5~6人はいたプロのホステスさん達が
年々減少していったのです。

山ちゃんを通じて買ってもらった中古車は安いものばかりで
外見を華やかに見せるために使う出費も多く、彼女たちの多くの
実際の生活は、意外に質素だったことを知っています。

"いい加減な男"と付き合っていることが
不思議と多かったことも一因だったのかも知れません

まだポケベルもない時代にそんな彼女たちと電話連絡を取るには
2度の呼び出し音の後1度切って、再度掛け直すという方法など
それぞれのやり方がありましたが、一番手っ取り早く確実なのは
開店前の夕方6時過ぎに出勤して来る彼女たちを店で待つ方法でした。

夕方なのに「おはようございます」という挨拶も
繰り返していると、何の違和感も感じなくなっていましたし
"事情"があって遅刻するための言い訳を請け負わされ、夕食
奢ったうえで夜8半時までの「同伴出勤」を頼まれたりもして
この業界にはそれなりに詳しくなってしまいました。

そんな関係もあり、私自身は何の会話術もない素人娘の
ご機嫌を取りつつ、こちらがお金を払ってまで飲ませる気には
毛頭なれずにどんどん足が遠のき、自営業を営み出した41歳を過ぎてからは
経費節約を理由にほとんど行かなくなったことを覚えています。


(35歳。社員旅行のハワイにて)

夜中の12時前後にはタクシーも代行も拾えず、30分待ちは
当たり前のカラオケ全盛時、ホステスさんが付いて1~2曲歌うと
ボトルが入っている"友人価格"であっても6000円を下回ることはなく
連れ立って2軒ハシゴして代行で帰宅すると、1万円札
2枚の姿が消えているのが当たり前でした。

ただし山ちゃんのクラブはもちろんツケでしたが。。。

ちなみに、私が「カラオケ」という単語を初めて目にしたのは
25~29歳の頃にレコード店に並んでいた、確か「KARAOKE」という
当時は意味不明だった表題のLPレコードでした。

収録されていたのはいわゆるメロディーラインは全くない歌謡曲で
つまりはプロの歌手がバンドなしでイベントやクラブなどで歌う際の伴奏が
主な使用目的だったらしく、これで歌うのは滅茶苦茶難しかったこと
そして僅か1~2年後に8トラのテープにメロディーラインが付いた
カラオケが飲み屋に一気に置かれ出した覚えがあります

喫茶店のテーブル型ゲーム機も物凄い勢いで普及し出していたのも
この頃のはずですが、記憶が定かではありません。

ところで昭和45年、私21歳の時にこのビルが建てられたそうですから
まさに青年~壮年への移行時のたくさんの出来事が思い出され
それの老朽化による閉鎖となるとそれはまさに、我々団塊世代の
時代の終焉を象徴しているような印象さえ抱いてしまいます。

跡地利用は周辺と同じく、最近特に増加が目立つ有料駐車場、または
なぜ増えるのか理由がよく分からない高層マンションが
造成されることは間違いないでしょう。

なにはともあれ、最後に一言お礼を言わせていただきます。

一つの時代にそっと脇に寄り添ってくれていて
本当にありがとう

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