保護猫と暮らす隠居爺の“自然農法”野菜作りとスキーの日記

5~11月は自然農法による自給用野菜作りと冬に備えた体力作り、12~4月はスキーに明け暮れ、保護猫活動は1年中無休です。

そもそも、自殺は悪なのか…①今、こんなことを考える理由

2012年07月29日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

昨年まで20数年間、世界一だった日本女性の平均寿命が
香港に抜かれて2位になったことをニュースで知りました。

大きな原因は大震災の影響とされる一方で
「20代女性の自殺の増加」も影響していると言うのです。

理由が私には想像すらできないのですが、これは間違いなくマズイことです。

若い女性が10人いて男が一人でも子供が生まれて総人数は増えますが
男が10人で女性が一人の場合は確実に減って行くからです。

高齢者は構いません(!)が
若者、特に若い女性の人口比率を減らしてはいけません。

さて、本題に入ります。

私がこの「高齢者の自殺を考える」を始めた理由は
 “死にたい高齢者”を減らす意味はどこにあるのか、という単純な疑問からです。

あくまで高齢者に限って、のことです。

現代社会において(昔からかもしれませんが)
「自ら望み通りに死にたい」と思った場合、選択肢が自殺しかないのは万国共通です。

もちろん、積極的または消極的に死をもたらす安楽死や延命治療を拒否する尊厳死は存在しますが
どちらも回復不可能な病気を患った場合に厳格に限定されるのですから
「死にたい」心を満たしているとは言えません。

有名なオランダの安楽死もその域を出てはいません。

宗教について私はほとんど無知ですし、今のところ特に興味もありません。

しかし仏教はもちろん、キリスト教、イスラム教においても自殺は禁止されていると聞きます。

にも拘らず、宗教をもってしても決してなくならないことは歴然たる事実なのですから
自殺はそれを超越した行為と言えるのかもしれません。

言い方を変えれば、宗教自体が頭で考えた観念の世界なのですから
例え傍からは異常と思えるにしても、同じく頭で考えた死にたい願望の方が
宗教への想いを超えてしまっただけのことなのでしょう。

善悪の判断で自殺をもし世間に問うたとしても悪にされることはほぼ決まっていて
されど法的には悪人とはされず、止むを得ないものと見逃されるのですから
宗教・哲学・倫理、もしかしたら医学・経済など、答える側の立ち位置によって
賛否両論が入り乱れて喧々諤々になり、結局は意見の一致など見るはずもないことは
安楽死や尊厳死の論争を見ても明らかだと思うのです。

ましてや、若者を含めたあらゆる世代の自殺の善悪を問うなどという騒ぎを起こすつもりは毛頭なく
以前から気になりだしていた私自身の、ひいては今後の高齢者の“死に方”について考える時
私にはどうしても自殺抜きでは語れないのではないか、との思いがあり今日に至っています。

そんな折、医療の一部を自らが拒否するという点で、見方によっては
自殺に数歩近づいたとも取れる新しい“死に方”の提案を目にするようになり
今までどちらかというと口にしづらい死に関する話題について
私とほぼ同世代の医師などの専門家が語り出してきたことは大いに歓迎すべきことであり
今後さらに議論が広がるに違いないと思うことしきりです。

(このことについては後日、改めて触れてみます)

 

 

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