羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

風邪症候群のよき置き土産

2008年05月12日 09時04分57秒 | Weblog
 風邪症候群で4月21日に声を失ってから、2週間が過ぎたころ、授業再開の準備で、発声練習をはじめた。
 はじめた当初は、いわゆる真ん中のドから上がほとんど声にならなかった。
 一オクターブ上のドからは裏声で少しだけ声になっていた。

 そこでピアノ練習の合間に発声練習と「千の風になって」の歌を組み込んで、1時間半弱、音楽の時間を持った。
 毎日というわけにはいかないが、先週からはじめて昨日は、真ん中のドから上が声として響いていているのを確認した。
「もし、このまま声が出なかったらどうしよう」
 実は、内心、心配しなかったわけではないが、一応のところ一オクターブ下げて「千の風になって」を歌うことができていたので、回復するだろうという希望の方が強かった。

 なぜ、この曲を選んだのかというと、たまたま楽譜があったということもあるが(誰かからもらっていた)、音域がメゾソプラノの範囲であったことが第一の理由だった。
 たとえば桑田の「TUNAMI」などは、キーが高くて今回のような咽喉の状況にはむかない。
 クラシックの歌曲も、音域が広いので無理なのだ。

 その点「千の風になって」は、歌手の秋川さんも声を潰したあとに歌っている曲だけに、歌手の咽喉に負担がかからない曲だと感じていた。

 先週、木曜日の授業では、今一の感はあったが、かなり声は戻っていた。
 そして2コマ目の授業では、更に声が出るようになっていた。
 土曜日の朝日カルチャーでも、ほとんど以前の声に近づいてくれたと思う。

 で、昨日は、もっと声が出ているのに驚いた。
‘突発性難聴’を患った後、歌うと悪いほうの右耳の奥に不快感があって、ずっと発声練習や歌うことを避けてきた。自分の声の大きさが体内伝導というか骨伝導というか、つまりからだに響きすぎて困っていたのだ。

 ピアノを弾くときは、耳栓をして音を少し遮断していたが、歌うという行為は耳栓では効き目がなかった。
 最近のことだが、そのピアノを弾くときに耳栓をはずしたまま練習するようになっていた。
 同様に今回の声を回復すべく行った歌の練習でも、不快感がなくなっていた。

 いやはや人間のからだはプレ還暦になっても、よい方向へ変化してくれるのだとほとんど感激状態にある。

 とはいえ元通りにならなくても、もうすこしいい声になってくれると信じて、歌の練習を再開しようと思う。
 からだの機能は、丁寧に使い続けることがなによりであることを今度の‘風邪症候群’は教えてくれた。
 身をもって知る自然の滋味でもある。
 風邪症候群のよき置き土産は、生命力の底力を知らしめてくれた。
コメント
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