羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

中野は田舎だった!?

2008年05月29日 09時54分49秒 | Weblog
 昭和二十四年に、新宿に生まれた私は、小学校3年生までその地で育った。
 新宿駅南口から西へ、初台方向へ歩いて2、3分、甲州街道を一本内側に入ったところに我が家があった。

 この家は終戦後に家の建坪の大きさ統制があったころ建てられたもので、その分庭が広く残されていた。
 夏の夜など縁側の戸は、開けたまま蚊帳を吊って寝ていたような気がする。その蚊帳に入るときは、蚊帳の裾をほんの少しだけ捲り上げて、団扇を仰ぎながら、蚊が入らないように、さっと忍び込まなければならなかった。
 蚊帳の中に敷かれた布団に横たわると、眠りにつくまでは母が添い寝して、団扇で風をおくってくれていた。時たま蚊がからだについたまま入ってしまうと、耳元に聞こえる蚊の飛ぶ音で、眼がさえてしまうことなどあったような気がする。
 しかし、蚊帳のなかでいつの間にか深い眠りに落ちていく気持ちよさは、今でも記憶の奥に畳み込まれているように思える。

 ある日、父の知り合いが、中央線の小金井に在住していて、連れて行かれた思い出がある。その日は父が運転する車ではなくて、電車に乗っていった。
 新宿駅から乗り込んで、西へ走る電車だ。いつもは東京駅方面に乗ることの方が多かった。なので、中野駅から先に行くということは、子どもながらに何だかすごく田舎に行くような気分になっていたことをはっきりと覚えているのだ。

 昭和二十年代最後の頃の記憶だと思う。
 当時、新宿までは、とりあえず東京だった。
 しかし、山手線の環状線から外側に出ることは、私の持っていた地図では、田舎なのだ。
 
 昨日のブログに書いた石川英輔さんは、昭和十五年(1940年)から中野の沼袋に住んでおられたという。
 実は、『原子力文化』5月号の対談ページには、昭和二十五年(1950年)二月撮影の中新井川(神田川の支流)の写真と、同じ場所を平成十八年(2006年)十一月に撮影したものの二枚が上下に掲載されている。
 
 この場所は中野区と練馬区の区境付近で、昭和二十五年当時は、今では信じがたいほど多くの昆虫がいたとキャプションがついている。
 細い川幅、左右に土手があり、小さな木の橋が架かっている。川の片側には雑木林の一部らしき樹木が写っている。冬なので落葉樹の樹形がはっきりと見ることが出来る。その向こうと、川をはさんでもう片側には、畑がどこまでも続いている風景が拡がっている。
 真冬の空っ風が吹き抜けて、相当な寒さを感じさせられる一枚の写真だ。

 平成十八年のものは、川の姿は消され、畦道は舗装されてその脇には家並みが続いている。川を挟んで双方にあった畦道は、なかった片方にも木が植えられ、十一月という季節では、落葉樹の葉は枝先にしっかりと残っている。
 そういった二枚の五十六年という時間の経過を経た定点観測の写真である。

 キャプションがつけられていなければ、同じ場所とは、到底わからない二枚の写真である。二枚目の写真は、まさに東京の変化を代表するもの、そのものを現している。
 この二枚を見た瞬間に、私が子供のころに抱いた新宿を西に出て、中野の田舎だ、という認識もあながち大間違いでなかったことを確認した。

 子供のころの新宿の家の庭には、相当な数の虫がいた。
 この地域が舗装道路になった後、それほど時間がかからずにトイレが水洗になった。それは幼稚園に上がって間近の頃だったから、昭和二十年代終わりごろだ。
 にもかかわらず、淀橋浄水場の周りにめぐらされている土手や、甲州街道を渡ったところにあった川(名前が定かではない)では、蛍狩りを楽しむことが出来たし、蛇さえも生息していた。
「今日は都心にお出かけ」という言葉も、聞いたような気がする。
 当時の我が家の都心は、丸の内、日比谷、東京駅周辺から有楽町、そして銀座を指していた。
 そのためか私の中では、未だに都心といえば、その地域だ。
 つまり、私の祖父母や両親たちの新宿は、四谷の大木戸から出た、甲州街道の宿駅なのである。
 ましてや中野は! ……。。。。。。。。……

      明日につづく
コメント
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