みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

八木誠一著 「イエスと現代」  その2 

2015-03-25 08:51:58 | 
愛するものは神を知る と著者はいう。愛は自己を超えたところに由来しているから  という。 私はここで躓く。愛は執着であり煩悩でもある、という仏教の教えに馴染んでいるからだろう。

超越的なもの(=神)を客観的に確かめることはできない。だから神を知るとは、知でありながら信である。「信知」である。 これは私も納得できる。神を仏とか無とかに言い換えても同様だと思う。

神を対象として見ることはできない。自己が自己を対象として観察するときにも、神は姿を隠してしまう。 この箇所を読んだとき、私はスメルジャコフ(「カラマーゾフの兄弟」の登場人物)のセリフを想起した。イワンとの3度目の対面のときだ。

神さまが今わたしたちのそばにいるんです。ただ、探してもだめですよ、見つかりゃしません。(原卓也訳 新潮文庫 下巻P291)

「神さまが今わたしたちのそばにいるんです。」と言われたとき、イワンは思わず辺りを見回したに違いない。イワンは「観察」する人だから。この場面の少し前にイワンはアリョーシャへ、こんな問いを発している。 自分が発狂してゆくのを、観察できると思うか?(P230) と。

スメルジャコフは憎悪と復讐と嘲笑で生きてきた。だがイワンとの3度目の対面のとき、スメルジャコフに劇的な変化が訪れていた。 すっかり顔が変り、ひどくやつれて、色が黄ばんでいた。目は落ちくぼみ、下まぶたが青かった。(P285) 死相に近い顔だ。このとき彼は神を「信知」するに至っていたのだろうか・・


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2 コメント

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宗教と言葉 (守拙)
2015-03-26 08:43:29
 八木誠一「イエスと現代」、平凡社ライブラリーによる増補版を図書館で借りて読みました。

 どのようなテーマであれ、〈考える〉という営みは基本的には〈言葉〉によりなされるはずです。しかし、宗教の問題を考えるとき、つまり〈言葉〉により宗教上の重大なことに少しでも接近しようと試みるとき、いつもぶちあたるのは〈言葉〉の限界です。しばしば言われることですが、私もまた、仮に宗教上の真理というものがあるとするならば、それは、〈語られる〉ものではなく(語ることができるものではなく)、〈示される〉ものであると思います。
 ちなみに、これが、イエス、ブッダ、ソクラテス、孔子というヤスパース言うところの文明の枢軸時代の四大宗教者・哲学者が(イエスが生きた時代は枢軸時代からやや下りますが)、いづれも、決して自ら書物を書くことはなかった(彼等の言葉として残されているものは全て弟子が編んだもの)ことの理由の一つであるのだろう、とかねてより私は勝手に思っていました。

 この本に記されている言葉を通して知る八木誠一の、現代の宗教者としての誠実さは疑いないにせよ、イエスの教えが指し示す真理-これはもちろん著者が信じている宗教上の真理でしょう-の周りを、〈理〉の言葉がぐるぐると旋回しているという印象になるのはやむをえません。
 (今、不用意に「イエスの教え」と言いましたが、「イエスの教え」は「キリスト教」の最重要な部分でしょうが両者はイコールではありません。例えば、復活信仰やイエスが人類の贖罪のために降誕したという考えはイエスの教えにはなく、初期のキリスト教団の宗教者達、特にパウロの影響が強いと考えられているようです。しかし、この点は今回の投稿の主題ではありません。)

 記事にある通り、この本には、「愛する者は神を知る」という美しい言葉がたびたび登場します。そして思うのです。この言葉を単に言葉として学ぶことは、全く無意味とは言わないまでもほとんど意味がないことだろう、と。私もまた、もちろん小零さんとは違う意味なのでしょうが、キリスト教の説く〈愛〉と言う言葉を素直に呑み込むことができない人間です。

 何なのでしょうね、〈愛〉って? 


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愛と慈悲 (korei)
2015-03-27 18:10:58
守拙様
 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」(歎異抄 第10章)と親鸞聖人はおっしゃったそうです。仏の真実は、人間の知恵や言葉で定義したり説明したり考えたりできない、と。守拙さんの御指摘の通り、イエスの教え等についても同様なのでしょう。
 従って八木誠一に苦情を申し立てるのは無いものねだりであり、不遜でもあるでしょうけれど、「ぐるぐると旋回する」文脈に誠実な苦心の跡を認めつつも、その語法や論理に厳密さと繊細さが欠けている箇所が目立っている、と言わざるをえません。初読時に良書という印象を抱いた私の再読感は、正直なところやや期待外れでした。
 ただ一方では、キリスト教徒ではない(?)がキリスト教徒的宗教者(?)という八木誠一の立ち位置は、キリスト教に対して抵抗感のある私がキリスト教の基礎知識の幾らかを学ぶための場としては貴重だったと思います。
 さて問題?の「愛」という語は、あまりにも雑多なイメージにまみれていて、使いにくい言葉ですね。日本語独特の傾向でしょうか?
 「カラマーゾフの兄弟」(原卓也訳 新潮文庫)中の「愛」という語に関わる印象的な箇所を再読しました。
 アリョーシャは「人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がたくさんありますよ。」というけれど、イワンは否定します。「人は他人であって、俺じゃないんだし」(上巻P595)云々。(ただイワンのこうした言説と実際の・・もちろん小説上の、ですが・・イワンは一致してないけれど) イワンにとって愛とは、自己の他者性に由来するもの、ということでしょうか? そして自己は自己以外の何者でもない、他者性などありえない、だから愛もありえない、あるとしたら、せいぜい言葉だけの抽象的な愛だけだ、と。
 ゾシマ長老は「愛を獲得するのはむずかしい」と言います。「永年の努力を重ね、永い期間をへたのち、高い値を払って手に入れるものだ」(中巻P143)と。イワンは瀕死の床から回復して愛を獲得することになるのでしょうか? 「あらゆる物を愛すれば、それらの物にひそむ神の秘密を理解できるだろう」ともゾシマ長老は言います。まさに「愛する者は神を知る」ということのようですが、微妙な違いがあるようにも思います。
 キリスト教でいう「愛」に近い仏教用語は「慈悲」かも知れませんね。ドミートリイの「すばらしい夢」(中巻P607)に登場する可哀想な童と母親たちへの感情は、慈悲という言葉が似合っています。ドミートリイらしく、慈悲というにはあまりにも烈しいものですが。
 親鸞聖人は「今生に、いかに、いとおし不憫とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。」(歎異抄 第4章)ともおっしゃっています。人間の慈悲は首尾一貫することができない、と。私は頷くのみです。
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