みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

「砕かれた神~ある復員兵の手記」

2019-11-28 18:38:22 | 
先般読んだ「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー著)に、この手記の一部が引用されていて強く深い印象を受けたので、地元の公民館図書室に依頼して、他市の図書館蔵を取り寄せてもらった。 2004年発行の岩波現代文庫だが、初版は1983年発行の朝日選書。

著者の渡辺清(1925~1981)は、「聖戦」を信じて志願した少年兵で、戦艦「武蔵」の乗組員だった。
本書は、その彼が20歳の昭和20年9月2日から翌21年4月20日までの日記である。



巻末に渡辺総子(1935~著者の妻 2014年から『わだつみの声記念館』館長)の解説がある。この解説によれば、昭和19年10月、少年兵の渡辺清が乗った戦艦「武蔵」は、フィリピンのレイテ島をめざしていた。シブヤン海上で米空母機群に捉えられ、猛攻撃を受け、10月24日夕、「武蔵」はその姿を海中に没した。

「武蔵」の乗組員2千3百余名のうち約半数近くが戦死、少年兵の渡辺清は海に飛び込み僚艦に助けられ辛くも生き残り、復員したが・・・

昭和20年9月30日の日記から、一部を以下に抜粋する。

天皇がマッカーサーを訪問(9月27日)。昨日ラジオでも聞いたが新聞にも五段ぶちぬきでそのときの写真が大きく出ている。
それにしても一体なんということだ。こんなことがあってもいいのか。「訪問」といえば聞こえはいい。しかし天皇がこれまで自分の方から人を訪ねたことがあったろうか。日本人にしろ、外国人にしろ、そんなことは明治以来ただの一度もなかったことだ。拝謁といえばいつの場合でも「宮中謁見」だった。相手はきまって向うから足を運んできていた。それが今度はどうだ。こともあろうに天皇のほうから先方を訪ねているのだ。しかも訪ねた先方の相手は、おれたちがついせんだってまで命を的に闘っていた敵の総司令官である。

その男にこっちからわざわざ頭を下げていくなんて、天皇には恥というものがないのか。いくら戦争で敗けたからといって、いや、敗けたからこそ、なおさら毅然としていなくてはならないのではないか。まったくこんな屈辱はない。人前で皮膚をめくられるように恥ずかしい。自分がこのような天皇を元首にしている日本人の一人であることが、いたたまれぬほど恥ずかしい。

マッカーサーも、おそらく頭をさげてきた天皇を心の中で冷ややかにせせら笑ったにちがいない。軽くなめてかかったにちがいない。その気配は二人の
写真にも露骨にでている。モーニング姿の天皇は石のようにしゃちこばっているのに、マッカーサーのほうは普段着の開襟シャツで、天皇などまるで願中にないといったふうに、ゆったりと両手を腰に当てがっている。足をいくらか開きかげんにして、「どうだ」といわんばかりに傲岸不遜にかまえている。天皇はさしずめ横柄でのっぽな主人にかしずく、鈍重で小心な従者といった感じである。

だが、天皇も天皇だ。よくも敵の司令官の前に顔が出せたものだ。

わざわざ訪ねたあげく、記念のつもりがどうかは知らないが、二人で仲良くカメラにおさまったりして、恬(てん)として恥ずるところもなさそうだ。おれにはそう見える。いずれにしろ天皇は、元首としての神聖とその権威を自らかなぐり捨てて、敵の前にさながら犬のように頭をたれてしまったのだ。敵の膝下にだらしなく手をついてしまったのだ。それを思うと無念でならぬ。天皇に対する泡だつような怒りをおさえることができない。

おれにとっての”天皇陛下”はこの日に死んだ。そうとでも思わないことにはこの衝撃はおさまらぬ。


以下は、昭和20年10月11日の日記から。

最近、今度の敗戦に対して、「一億総懺悔」ということがよく言われているが、おれはこの言葉にはおおいに疑問がある。だいたい懺悔というからには、まず誰が誰に対して何を懺悔するのか、それをはっきりさせるべきだと思う。それをあいまいにしておいて何が懺悔かと言いたい。それに一億国民みんなが懺悔したら、結局懺悔にならないのではないか。敗戦の懺悔と言うなら、天皇をはじめ戦争を起こした直接の責任者や指導者たちが国民に向かって懺悔するのが本当だろう。それをウヤムヤにしておいて、敗戦の責任を一億みんなのせいにしてしまうのは、あまりに卑劣だとおれは思う。

以下は、昭和21年4月14日の日記から。

種屋は朝から人が出たり入ったりして大騒ぎだった。昨夜突然、戦死して村葬まですました長男の辰平が還ってきたのである。

辰平は土間に入ってきてすぐ妻の幸子の体の異常に気がついたらしい。幸子はすでに7か月の身重でもうかくしようがなかった。それが辰平にはよほどショックだったに違いない。靴も脱がずに土間につったったまま、みるみる顔の色が変わったかと思うと、「このアマ、誰とくっつきやがった、誰と・・・、そんな体しやがって、おれが帰ってくるまで待てなかったのかよお、畜生、ぶっ殺してやるから・・」と怒鳴りながら、いきなり隅の立ち臼の上にかけてあった尺鎌をひっぱずして、駆け寄ってきた幸子に振りかぶったが、それを弟の安造が一瞬早く後ろから羽交い絞めにおさえたという。そこへ騒ぎを聞きつけて風呂から飛び出してきた孫一(辰平・安造の父?)が、口から泡を吹くようにして、幸子が実は去年の秋ごろから(辰平の戦死を知らされ、村葬も済ませた後、)安造と直った前後の事情をあわてて言って聞かせたそうだ。辰平はそのあいだ安造に後ろから両手をおさえられたまま、興奮して、はあはあ言っているし、幸子は幸子でその辰平の足に母親の志乃といっしょに両手でしがみついて、「あんた・・・堪忍して、堪忍して、ご無心だから堪忍してよお、よお・・・」と、身をもみたてて狂ったように泣き叫んでいたという。

辰平はしばらくして自分から握っていた尺鎌をわきにほっぽりだすと、「相手が舎弟でなかったら、二人ともぶっ殺してやるところだぞ。もうてめえの面(つら)なんか二度と見たくねえ」と言いながら幸子を二、三度足蹴にして、また毛布と風呂敷の包みを振り分けにかついでそのままうちを出て行ったという。

読んでいると、もうすべてのページをここに引用したい気持になってしまうが、そういうわけにもいかないので、最後に、渡辺総子の解説文の一節を引用して終わりたい。

日記には、めまぐるしく変わる世相とそれに対する怒りと同時に、変わらぬ父母への愛、一家協働の農作業、「ほくほくとしたあたたかい土」、初恋、裾野の秋から冬、そして春への描写の中に、青年が徐々に感性を取り戻していく様子が私(妻の総子)には読みとれる。生来の、働くことをいとわず、小さき者、弱き者へのやさしさも。





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