2本の動画どうでした。僕は立派な教材だと思いました。「基礎的知識、技術」の習得はこのような道具に置き換えていけると思うのです。「どうやったら理解してもらえるか」を教員以上に考えてる人がたくさんいらっしゃる。そういう知を集めて「教育における社会資産」としてまとめ、教材にしていけばいいのではと思うのです。大学レベルの講義も可能だと考えてます。
そうするために前提条件が一つあります。それは「知識教材マップ」なるものが必要だろうと思うのです。「どの教科のどの分野のどういうレベルの教材か」(教科によって違った分類も)を作る側、使う側が共通して使える索引のようなもの(教材体系)、これが必要で文科省が作ればいいし、固定的に考えることはない。大枠の変更はめったにやらないとして、詳細なレベルだったら追加されてもいいんじゃないかな。
このような教材が整理され、教育システムが実現した時のメリットは絶大だと考える。前記事で挙げた5つ6つの「現教育制度の問題点」はどれもこれも解決するんじゃないかな。あえて一つ強調しておきたいのは 「学生が自ら学びに行く、行かなければ何も習得できない環境になる」という点です。(今の我が国で大いに欠けてきてる要素)
さて当然反対意見もあるでしょう。ひとつだけ「PC、通信環境がある子はいいが、無い子は? 不公平じゃない?」という論に対してだけ。
学校や街の図書館にそういう環境を整えればいいのです。「自宅で持て」と言ったら不公平が生まれます。やりたい子は行くところへ行けば出来るようにだけはしましょう。そこまで整えればそこから先は「やる気」の問題でしょう。 一つ逸話を。武満徹さんは子供の時貧乏でピアノを弾ける環境がなかったそうです。近所でピアノの音が聞こえてきた時、その家を訪ね、弾かせて貰ったという話です。「不公平」を言う前に「やる気」も見定めることが必要でしょう。
先生の機能はどうなるのだろう。基礎的知識を教える義務がなくなるので仕事量は軽減するでしょうね。でも生徒がNETで学んだ基礎知識に関して解らずに質問する先はやはり先生。ここは担って行かないと。だから量的に減っても、質的に難しくなるかも。先生もそれぞれが得意分野を持つということが起きるかな。集団生活の中で生徒たちを導いていく、教えていく内容はまさに「人を育てる」という本質が求められるのだと思う。生徒が自ら学んだ一見無関係に思える知識、技術が何物か、どう関係してるのか、これからその子が生きていくのにどのような意味があるのか を教えるのは先生の仕事。 但し逸脱してはいけない。特に幼少の頃、親がやるべき、親しかできない仕事(愛情)はしっかり親にやらせないと。
ここからはまだ考えきれてないので簡単に想いを。
高校受験 学科試験なんてやらない。やっても「最低線でここまではできてね」程度の試験でいい。論文と面接でいいんじゃないですか。高校が「こいつ育てたい」と思う生徒を合格させればいい。
大学受験 どうしましょうかね。 見えてないんだけど、今大学の教室、研究室で行われてる「○○教授の×××原論」とかいう講義は全部NETで聞けるようにしたいね。そうなってる前提で、大学に行く意義は。 教授、同期、いろんな人たちと議論し、遊び、呑み、自己形成の最終段階を過ごすことかな。教授と1対1で教えを乞うということもあるだろうね。 そして自分が「これで学生としての学びは終了」と決めたら社会に巣だっていけばいい。巣だっていくのは4月でなくったっていいんじゃないかな。
こんな教育システムを夢想してるんです。
そうするために前提条件が一つあります。それは「知識教材マップ」なるものが必要だろうと思うのです。「どの教科のどの分野のどういうレベルの教材か」(教科によって違った分類も)を作る側、使う側が共通して使える索引のようなもの(教材体系)、これが必要で文科省が作ればいいし、固定的に考えることはない。大枠の変更はめったにやらないとして、詳細なレベルだったら追加されてもいいんじゃないかな。
このような教材が整理され、教育システムが実現した時のメリットは絶大だと考える。前記事で挙げた5つ6つの「現教育制度の問題点」はどれもこれも解決するんじゃないかな。あえて一つ強調しておきたいのは 「学生が自ら学びに行く、行かなければ何も習得できない環境になる」という点です。(今の我が国で大いに欠けてきてる要素)
さて当然反対意見もあるでしょう。ひとつだけ「PC、通信環境がある子はいいが、無い子は? 不公平じゃない?」という論に対してだけ。
学校や街の図書館にそういう環境を整えればいいのです。「自宅で持て」と言ったら不公平が生まれます。やりたい子は行くところへ行けば出来るようにだけはしましょう。そこまで整えればそこから先は「やる気」の問題でしょう。 一つ逸話を。武満徹さんは子供の時貧乏でピアノを弾ける環境がなかったそうです。近所でピアノの音が聞こえてきた時、その家を訪ね、弾かせて貰ったという話です。「不公平」を言う前に「やる気」も見定めることが必要でしょう。
先生の機能はどうなるのだろう。基礎的知識を教える義務がなくなるので仕事量は軽減するでしょうね。でも生徒がNETで学んだ基礎知識に関して解らずに質問する先はやはり先生。ここは担って行かないと。だから量的に減っても、質的に難しくなるかも。先生もそれぞれが得意分野を持つということが起きるかな。集団生活の中で生徒たちを導いていく、教えていく内容はまさに「人を育てる」という本質が求められるのだと思う。生徒が自ら学んだ一見無関係に思える知識、技術が何物か、どう関係してるのか、これからその子が生きていくのにどのような意味があるのか を教えるのは先生の仕事。 但し逸脱してはいけない。特に幼少の頃、親がやるべき、親しかできない仕事(愛情)はしっかり親にやらせないと。
ここからはまだ考えきれてないので簡単に想いを。
高校受験 学科試験なんてやらない。やっても「最低線でここまではできてね」程度の試験でいい。論文と面接でいいんじゃないですか。高校が「こいつ育てたい」と思う生徒を合格させればいい。
大学受験 どうしましょうかね。 見えてないんだけど、今大学の教室、研究室で行われてる「○○教授の×××原論」とかいう講義は全部NETで聞けるようにしたいね。そうなってる前提で、大学に行く意義は。 教授、同期、いろんな人たちと議論し、遊び、呑み、自己形成の最終段階を過ごすことかな。教授と1対1で教えを乞うということもあるだろうね。 そして自分が「これで学生としての学びは終了」と決めたら社会に巣だっていけばいい。巣だっていくのは4月でなくったっていいんじゃないかな。
こんな教育システムを夢想してるんです。