カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

なんという悲劇の記憶と現実   死の記憶

2014-01-31 | 読書

死の記憶/トマス・H・クック著(文春文庫)

 今となっては一人の息子と良き妻の居る家庭を持ち、仕事も堅実である男のには、自分以外の家族を皆殺しにして、逃げ去った父を持つという過去がある。凄惨な事件を経ながら、ちょっとした偶然で命を残すことができた主人公だが、もちろんそんな過去のことが影になっていることは確かなようである。そうして形の上では忘れ去られたようにも感じられる35年前の事件を、ある女性作家が改めて調べなおして本にしようとしている。残された家族である主人公は、そういう作家の作業に付き合ううちに、忘れてしまったと思っていた過去の記憶(あるいは忘れようとしていた)を蘇らせていく。そうして、そのような過去への旅を重ねるごとに、現在の生活をどんどん失ってしまうことになってしまうのである。何もかもが生き残っているだろう父への憎悪に変わってしまう中、改めて父を追跡することになる。そうして明らかにされる驚愕の過去とは、いったいなんだったのだろうか。
 読みながらいろいろと気に食わない気分には陥った。彼自身は不幸な境遇だったかもしれないが、彼が現在を損なっていくのは、必ずしも過去の責任とばかりはいえない気がするからだ。もちろん動機のはっきりしない残虐な殺人を犯した父の血を受けついた者という考えもあるかもしれない。そのように示唆される描写もある。一種、のろわれた血を持つものが、呪われた過去の記憶にとらわれていくのである。そのことが、現在を損なう原因となるように感じるのは、必ずしも不自然ではないのかもしれない。そうかもしれないが、読んでいる僕としては、どういう趣向性にあえて馴染んでいこうとする主人公の気持ちが、どうしても理解できないのかもしれない。
 しかしながら物語としては、そういう破滅の道を歩む過去という負の遺産に向けての興味として、どうしても過去を暴かずに居られない気持ちにもなる。記憶だけを頼りに、本当に過去にさかのぼることが可能なのか。事実として物事を捉えきるまでには、生き残った当時の主人公は幼すぎるのではあるまいか。もちろん、見た光景をその当時は理解できなかったことはあっても、現在の大人である自分には、改めて理解できることは多い。すべてを失う悲しい家族のドラマというものが、徐々に徐々に浮かび上がっていく。読者としてもその経験を一緒に味わっていながら、しかし最後にはその事実の驚愕の転換に打ちのめされるに違いない。凄惨で悲しい物語が、もっとひどく悲しい物語になったとしても…。
 この、一見叙情的な悲劇の物語だと思っていた作品が、ミステリーとして非常に優れたものであるという事実が、さらに読者の心をつかむに違いない。気分のさえるような満足感のあるどんでん返しではないのだが、読み終わった後にもふさぎこむような気分になったとしても、作家の名前を忘れられなくなるのではなかろうか。このような暗い物語でありながら、絶大な人気を誇る作家である意味というものも、同時に強烈に理解することになるだろう。
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