カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

まったく変な個人史   フローベールの鸚鵡

2014-01-27 | 読書

フローベールの鸚鵡/ジュリアン・バーンズ著(白水社)

 読み始めてしばらくは、自分は何でこんな話を読んでいるのか我ながら疑問だった。それというのも、いつこの物語は始まるんだろうと、素朴に疑問に思ったからだ。なんといえばいいのか、おおよそ小説らしくない展開だし、評論といってもいいもののようにも感じる。評伝、という感じもしないではない。どこまで事実かは知らないが、どうもこれは本当の話なのではないか。日本にも私小説というのがあるから、それはそれでいいとしても、いろいろもったいぶった考察があって、ようやく物語が逸脱しだしてもなお、小説なのかはさっぱり分からない感じなのだ。もうあきらめてボツボツ読み進めて調子に乗ってきたら、ああ、やっぱりこういう小説もあるんだな、とやっと分かるような気分になって、しかし最後は元に戻って評伝のように終わってしまった。そんな作品といえばそれまでかもしれないが、変な小説であることには間違いはあるまい。
 そもそも名前くらいはなんとなく知ってはいたのである。それくらい有名な小説家さんではあるんだろう。誰が好きといっていたかは失念したが、池澤夏樹のエッセイを読んでたら、また名前が出てきた。まあ、酔狂にはいいかもしれないと思って、買っておいたものらしい。
 現代の小説がどのようなスタイルなのかというのは知らない。現代小説という分野があるのか無いのかも知らない。しかし、前衛的と知っていたなら、そもそも読もうなんて思わなかっただろう。しかし文体は目新しいという感じではなく、英国人らしい風刺の利かせ方は感じられる。つまり、なんとなく古臭い感じだ。でも小説としては特にまとまりも無く、何を言いたいのかさっぱり訳が分からない。で、つまらないかといえば、暇つぶしになるくらいはつまらなくない。これは一定のファンがいるな、というのは分かるくらいポピュラーな面白さもある。堅苦しく衒学主義的でもない。しかし、実に多彩な情報が詰め込まれていることも間違いなさそうだし、明らかに膨大な資料の読み込みもありそうだ。しかし小説だから信用はできない。そんなものを読んでどうなるか。ま、楽しむしかないんでしょうな。
 そんなことを感じながら読んでいて、しかしこんなような変な話を書いてみたいような欲求も生まれる。簡単に書けるようなことはないだろうが、ちょっと前に死んだような人を訪ねていって、いろいろ周辺のことを調べたりして、その人のことに思いを馳せるというのは、あんがい楽しいことではないだろうか。死んだ人だから、その人の歴史を語ってももはや文句は言わない。家族もいるだろうが、その人も忘れてしまうくらい適当に昔なら、勝手にありそうなことを発掘しても、そうそう文句は言われないのではないか。
 それが作者の動機なのかは知らない。しかし、このような錯綜した作品を描いたことは、さぞかし充実感があったのではなかろうか。フローベールのすべてを描いたものではないのかもしれないが、その周辺はかなりのところまで面白く理解することができた。本当かは知らないけれど、現代においてのフローベールは、そういう人で決まりである。後世の人が個人の歴史を作ること。そういう小説があってもいい。必ずしもそれがヒーローでなかったとしても、彼の書かれたものが生き残っていなかったとしても、そのようにして残る個人というのはあるのかもしれない。
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