お祝いなどの相場に対する暗黙の了解について書いた。しかしこれは多方面にわたる感じがすることにも気付かされる。必ずしも明文化されて決められたことではないことに、しかし本当は決まっていて困るということは多いのではないか。そういうものにこそ人々は振り回され、精神的にも衰弱してしまうのではないか。
明文化は単純化でもあるし、必ずしも本来的な問題を解決はしない。それは分かっている。書かれている通りに人間が行動することの方が不自然だ。たとえそれが労働時間の制約であるとしても、理屈は分かるが、客がいる限りどのようなサービスをするかということの競争であるなら、そう簡単には済まない問題だろう。ホスピタリティの高さを競うなら、オリンピックの「おもてなし」なんてものは、ブラック企業しかやり遂げられない精神かもしれない。一方では囃し立て、一方では批判しても何にもならない。それを日本人がやれるのは、明文化されていない何かの働きを強制する心の表れだろう。
しかし、問題は空気だ。自分はしたくはない。もしくはその必要を必ずしも感じていない。しかしやはり考えてみると、やらなくてはならない問題があるかもしれない。そのことに自分で気づいてする分には尊いことであるけれど、それすら気づかないまま、鈍感であるせいで苦痛な場合はどうするか。それは人間的には未熟であることは明らかだけれど、しかし、そういう人間がいること自体は否定できないことではなかろうか。日本人だから当たり前という前に、それ以前の人間が混ざっている社会の方がまっとうだ。そういうものが混在しながら、しかし一定のレベルを保つにはどうするか。基本的にそういうことで、多くの人が悩んでいるのではあるまいか。
日本的な美徳というものについては否定しにくいものがある。しかし、やはりよく分からない空気に支配されて自分の行動が制限されるとしたら、またはそういう疑いがある場面が多いとしたら、それはどこかで危険信号であるという認識が芽生えるべきなのではなかろうか。そういうものに個人で戦うのは難しいから、さらにそういう空気をおぼえる側に加わっていることが多いのではあるまいか。長いものにまかれた方が楽なこともあるんだけれど、明らかにそれになじまない人間を見つけたならば、複数の人間が声をあげられることが大切になってくるだろう。そういうものが普通になるというのは、日本的な均質性にとってはマイナスな面もあるかもしれないが、本来的にはしあわせの道のような気がしないではない。ときは今なのかどうか、問うべきはそういうことかもしれない。