カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

辞めた理由を忘れたのだろうか

2014-01-12 | 時事
 細川さんが出ることで事実上新知事は決定したわけだが、争点が原発である前に5000万円で辞めた人の後に一億円で辞めた人がなったという事実に奔走されることが決定しただけの事だろう。それでほんとに持つのかなあ。また辞めて選挙ということになれば、何のための茶番なんだろうか。
 反国政を盛り上げようというマスコミの目論見は新聞を売るための戦略だろうけど、これはこれまでとも同じだとしても、それを続けることが本当にいいのだろうか。反対の勢力が盛り上がらなければ政治ネタは売れないというだけのために、世論を動かすのがマスコミの使命なんだろうか。内容的には単純でないものがないまぜになってうやむやになるだけのことで、さらに問題は先送りされるだけの事のように思える。
 それにしても言葉は悪いが、これが「老害」というやつで、そういう社会が日本の姿だという象徴的な出来事なんだということのようだ。僕らは踏ん張って頑張るしか無いと気持ちを引き締めなければなりませんね。将来はかなり毀損されているわけだが、現在の積み上げで打開するより無いようです。本当に未来を生きるのは僕らの子供たちなんですからね。
 
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意味のありそうなものだから厄介だ

2014-01-12 | culture

 正月に墓参りしたのかどうかあんまり記憶が無いが、子供の頃には親と墓に行くことはそれなりに多かったように思う。ばったり親戚と会ったりして、何となく楽しい感じはあった。よその墓に知り合いがいて、どうだこうだというようなこともあったかもしれない。同じ時期に墓に集まるのだから、一種の社交の場ということもあったのだろうか。
 それにしても田舎の墓だから普段は閑散としている。親父も死に親戚の多くも亡くなって、さらにウチはちょっと特殊なところもあるが、あんまり親戚づきあいもしない薄情な人間の多い家柄なので(かみさんサイドは別ですけど)、お袋やつれあいに言われない限り自分から墓に行くことなんてまるで無い。特に自分の父の墓は家から歩いて数分だが、犬の散歩で近くを歩いてもほとんど意識することすらないかもしれない。しかしだからと言って先祖を敬う気持ちを尊いと思う気持ちも分かるし、他人の家の線香は普通にあげる。
 死んだ人は不思議だな、と思うことは多い。死んでしまったのだからこの世には当たり前だが居なくなった。その人の意思などというものも現実的には存在しない。しかし生きている人にとっては、その人が生きていた時より死んだあとになってより尊重されたりすることもある。もっとも本当にそうなのは分からない訳だから、本当は生きている人の都合でそうさせていただいているということなのだが…。
 しかしお墓が無いと何となく落ち着かない人もいるようで、死んだ後もいつまでも生きている人にとってはかかわりが消えない。ある人などは死んだあとに一緒の墓に入りたくないと言って夫婦喧嘩をしていたが、死んだ後にどうされようと知ったことではないではないか。しかし嫌だという気持ちはなるほどと思うが。
 昔の人であっても、無名の人ならともかく、立派な墓を建てようとする見栄っ張りは多かったように思われる。ピラミッドなどはその代表格だろうが、日本の古墳だってなかなかどうして意味もなくでかすぎる気もする。いや、本当は意味があって死んだ人そのものよりその墓を立てた人の権力の継承がそれなりに意味があるということなんだろうが、そういうものが残るということにおいても、なんだか人間の悲しさを感じさせられるものがある。死者を守るためにいけにえに余分に人が殺されたりという話もあるし、まじめにやっていたんだろうけれど、悲劇的に滑稽な話だ。死んだ人がいろいろと悪さをしてしまった過去というのは、まったく罪深いものである。
 墓にはそういった墓に入っていない人にとっては意味があるが、関係の無いものにとってはまったく無用のものである。恐らく何にもならないものだが、だからこそ尊重されているということなんだろう。ネアンデルタール人も墓をつくった形跡があると言うから、人間にとっては原初的な欲求なのかもしれない。だから簡単には否定できないが、妙な癖を持ったものだな、とは思う。
 しかしながら仏教の国の多い東南アジアの話になると、そもそも墓が無いという文化もあるらしい。人は死んだらすぐに何かと生まれ変わる。蝶になったかもしれないし、牛になったかもしれない。そういう人たちに墓などさして重要ではない。日本でも死んだ私が墓には居ないという歌が流行ったことがあったが、そういうイメージを持っている人も結構いるということだろう。輪廻転生が本当かどうか確かめようがないが、墓が絶対でない文化や文明だって人間にはあるということである。しかし何となく共通しているのは、そういう生きている人のイメージ次第だということかもしれない。
 個人個人違うものだが、共通する感情もある。他人の死後にもとやかく言う人や国があるのはその所為なのだろう。もう無くなってしまったもののために、今ある人が怒ったり苦しんだりする。このことがいかに罪深いことなのかということは、死んだ人は知らないだろう。生きている人間が一番罪深いのはそういうことの様に思う。
 墓の様なものは、一度作ってしまうと誰かが壊さない限りその場にいつまでも残りそうだ。そういういつまでも残したい思いがあるというのが、本当は死んでしまう人間の、いちばんのエゴなのではなかろうか。
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