カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

気持ちがいくらかは難しい

2014-01-09 | culture

 葬式ならそう考えなくなったが、お祝い事ならその場においていくら位なのかは気になるところだ。田舎でのホテルなどでやる結婚式ならだいたい決まっているようなものだけど、あんまり正式でなく、それでも会費制で無い場合などはそれなりに悩む。また結婚式では無いお祝い事にもいろいろ相場がありそうだ。業界によっても組織によっても違う場合は多い。多ければいいというものでもなさそうだし、一番無難な線というのを決めるのはなかなかむつかしい。
 同じく参加する仲間に相談する場合、その相談相手が自分の思っている金額と極端に違う場合も戸惑う。いやそれは安すぎるだろう、というのを言いにくい。でも知ってしまった以上やはり言っておいた方がいいというのもある。相手が恥ずかしくないように言うという役割というのも難しい問題だ。
 しかしながらそうはいっても、本来的にはいくらでもいいと言っているので、本当にいくらでもいい場合だってあってもいいと思う。気持ちの問題だから多くても少なくてもいいじゃないかというのは、偽らざる本音かもしれない。
 だいぶ前だけど、日本に駐留していた米軍の友人が共通の友人の結婚式に呼ばれて、日本のお祝いは高すぎるので(自分を)呼ばないでくれ、と言っていた。半分は冗談だったかもしれないが、本心ではあったのではないか。米国の相場では、結婚式にはそんなにお祝いをしないらしいとその時知ったわけで、さらにほんとにお祝いのお金ではない場合もあるとか言っていたようだった。
 考えてみると、こういう決まっていないような場合において、日本の場合は実は相場的に決まっていることが多いような気がする。決まっていないと言いながら、そうでなければならないような強制力が働く。知らなければ恥ずかしい思いをする。それすら気づかなければ、ひょっとすると村八分。そんな集合体だって存在しそうだ。
 明文化されていないものの強制力があるというのが空気の問題なのだが、それに従わざるを得ないというのが、やはり一番の問題なのではないか。
 相場で無くて会費制になっているようなところは、なんだか安心する。これも主催がどうなっているというような背景もある場合はあるけど、基本的に悩みが少ないだけ罪が少ない。そんなことを言うと、人間関係がドライになって寂しいということを言う人がいる。やはり難しいものだというのは、なかなか消えない。
コメント
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