味を感じる器官に舌などにある味蕾というぶつぶつがあるらしい。これの数には個人差があって、味蕾の数が多ければ多いほど、味を感じる能力が高いのは間違いないのだという。人間の味覚の機能として、味蕾の多い人ほど繊細に味を感じ取ることが可能だということだ。
ところが味蕾が多い人が味を感じる能力が高いのだから、当然グルメであるとか、例えばソムリエの様に味を見分ける(感じ分ける)商売に向いているのかというと、ちょっと違うのだという。味蕾が多い人は少ない人より当然その味そのものを強く感じる傾向があるようだ。野菜を食べるとその苦みを強烈に感じる訳で、つまり野菜嫌いには味蕾の多い人が多いという。辛みもそうで、平均的に他人の三倍も辛さを感じるらしく、とても耐えきれない。結局甘いものを好み、複雑な味には保守的になって単純な食事をするような傾向に陥ってしまいがちなのだという。好き嫌いの多い子にいろいろ食べさせようとして、かえって何も食べなくなるような場合は、その子は極端に味蕾の多い味に敏感な子供なのかもしれない。人為的に味蕾を減らせるのかどうかは知らないので、そういう能力が高いことが味に対する不幸な境遇であるのかもしれないことには、知っておいても良いことかもしれない。
ちなみに味蕾の数は良く見ると分かるようだから、ご参考まで。
結局苦味などの様な味は、経験を積まなければ好ましくは思わないものであるという。アメリカ人などは、そもそも旨味の様なものが分からない人が多いのだそうだが、ほとんどの場合、ダシを取った味というのをそもそも食べたことが無いために、理解できないだけのようだ。何度も食すようになると、旨味というのは当然理解できるようになる。能力が無いのではなく経験が足りないのだ。
考えて見ると、小さい子供の頃から苦味のきいたお茶が好きだというような子は少ない。大人のまねをして無理して渋いお茶を何度も何度も飲んでいるうちに、いつの日か、ハタとその渋みのきいた味わいの深さに、心を打たれる日が来るのかもしれない。
もともと粋なものというのは、たいして旨くないものを無理して(やせ我慢して)食べて自慢するようなものだそうである。本当は旨くないものを旨く感じるような経験が、あらたな旨さを開発するようなことになるのかもしれない。本当には旨くないからこそ深みのある旨さが分かるということでは、素直じゃないからこそ味覚の世界が広がっていると読み変えることもできそうだ。その様な素直じゃない人間が多いから、グルメの探訪は尽きることが無いと言えそうである。