アイルランド系の名前には頭にマック(MacとかMc)と付くと、「○○の子」という意味があるらしい。ドナルドの子はマクドナルド、アーサーの子はマッカーサーという具合に。家系などを名前であらわすという考えともつながるものだろう。
また、同じくあちらでは素直にジュニアと付けたりしているが、日本人の感覚からするとかえってめんどくさい感じがしないではない。ジュニアで無いじいさんや父さんが死ぬと、ジュニアを外したりする。そういうのは家族内というか、親戚どうして勝手にやってくれればいいと思うが、ひょっとするとその偉大なじいさんなりの力にあやかるというか、そういう感覚があるのかもしれない。
実を言うと僕の名前にもじいさんの名の一部である「明」という字が付いている。これは亡くなった祖父さんが、孫に自分の名前を付けたがったためらしい。そうであるから僕の兄にも「明」は付いている。これはファミリーである証だが、しかし父や叔父さんにも名前を付けたのだから欲張りという気がしないではない。ちなみに僕の弟からはさすがに父が名前を付けたがったらしく、祖父さんの所縁の文字は見てとれない。なんだか名前自体が権力闘争の一種のような気がしないではない。
輪廻転生はアジア的な概念だという感覚があるが、このような名付けの習慣には、子孫にわたって自分の血が生き残るというような、いわば生まれ変わりの思想がありそうな気がする。それは伝統とも関係があるのだろうけれど、しかし同時に個人という個体は、やはり死んでいなくなるためにそのような痕跡や印を残していくということでもあるのだろう。死んだあとにそんなことをしてもたぶん本人には何の関係もないのだから、ある意味では無駄なことであるにせよ、そのような考え方は伝えられて、残るということになるのだろう。いわば連続する物語のようなもので、人間の持っている考え方の癖のようなものなのだろう。
その国の文化には大きな違いもあるものだけれど、しかし突き詰めると似ているところもある。そういうめんどくささが人間らしさということでもあって、忘れてしまった記憶の中にも、今考えている原型のようなものが潜んでいるということもありそうである。気にしなければ無いということで素通りしているだけのことで、僕らはその影響から逃れることはできないのだと思うのである。