カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

お勧め笑い本 3

2012-07-13 | なんでもランキング
さらに続く。

○時刻表2万キロ/宮脇俊三著(角川文庫)
 ユーモアのある文章というのがあって、そういうものは何となく日本語の世界では失敗している人が多いように思うのだが、宮脇のそれは、自然体でなおかつ、そのバランスが絶妙という感じがする。好きな世界に没頭してしまう自分自身の悲しさを何となく客観視出来ているけれど、しかしやはり暴走は止められない。そうでありながら、いろいろ脱線したり寄り道したりして、必ずしも一途というだけでない人間的なところがまた、僕にはたまらなく共感してしまうところかもしれない。

○ガセネッタ&シモネッタ/米原真理著(文春文庫)
 下ネタというのは男が語ると限りなく下品になり下がって疎まれることにもなりかねないのだが、女性がさらに下品に語るので参ってしまうということにもなるのかもしれない。含蓄が深くて国際色豊かで文化的なバランス感もありながら、明らかに行き過ぎである。それでもやっぱりそういう下品さは誰でも笑える笑いの王道なのだということも、また真実だと思う。

○じみへん/中崎タツヤ著(小学館)
 漫画は除外しておこうかとは思ったのだけど、まあいいか。時々不思議な気分になることもあるのだが、中崎タツヤの笑いはハマりだすと中毒になるような気がする。もちろん吉田戦車でもいいとは言えるが、チャレンジしている方向のズレ具合が違うのだろうか。爆発する刺激のような心地よい危険な笑いなのかもしれない。
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お勧め笑い本 2

2012-07-12 | なんでもランキング
 実は番外というか、続き。三冊にしようとしてもれたものというか、意味合いを替えると実はこちらも真髄というか。

○辞書はジョイスフル/柳瀬尚紀著(新潮文庫)
 言葉ってこんなに深いものなのか、と思わずため息が出るに違いない。そしてすこぶる面白い。もんもんと苦悩したり七転八倒する苦しみであったり、そういうものが目の前に展開していくすさまじさも含めて、時に爆笑しながら恐れ入るような不思議な感覚になるだろう。

○謎とき「罪と罰」/江川卓著(新潮選書)
 本を深く読むとはどういう行為か。単に面白く読んでいて何が悪いということではないが、実はどうしても読み飛ばしている事が多いのではないか。ひとつの話に、一つの文章に、たった一行に、そしてひとつの単語に、実はこれほどの意味が込められていたとは、いったい誰が想像したということだろう。しかしながらこれも行き過ぎてやはり段々笑うしかなくなってくる訳で、所詮深読みは無理だと絶望を味わうことにもなるかもしれない。

○ら抜きの殺意/永井愛著(光文社文庫ほか)
 戯曲である。いろいろ考えさせられる科白の数々。これも言葉の世界の奥深さに感嘆させられながら、しかしやっぱり爆笑せざるを得ない。これが舞台になるとそのパワーが、さらに炸裂するに違いない。言葉というものは関係性によって成り立つものでもあり、そうであるから文化というものを色濃く滲ませるものでもある。それにしても田舎暮らしの悲しさ、舞台、観てみたいですね。

ちょっと番外
○女子中学生の小さな大発見/清邦彦編著(新潮文庫)
 中には??のままの観察もあるけれど、基本的に素朴にまじめに世の中のことをじっくり見ると、これだけの面白い大発見がたくさん見つかるということのようだ。もちろん最初から失敗しているものも含めて、それでいいじゃないかというおおらかさも好感が持てる。というか、これは忘れてしまった楽しい生き方そのものを教えてくれる本ではないか。本人たちが目の前に居ると気の毒になることもあるかもしれないが、素直に笑っていいと思います。
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お勧め笑い本

2012-07-11 | なんでもランキング

 雑誌の考える人を読んでいたら「笑いの本マイ・ベスト3」という紹介があったので、真似してみることに。
 本を読んでいて思わず声を出して笑ってしまうというのは、正直言ってあんまり無い気がする。ちょっとだけムフフと笑うというなんだかいやらしげなスタイルが多いのかも。自意識がそうさせるというか、活字を読むリズムがそうなのかというか。
 そういう中にあって、いわゆるツボにハマった面白本ということになるかもしれない。これ等の本は思わず声を出して笑ってしまったわけで、電車の中などでは注意が必要かもしれない。

○新解さんの謎/赤瀬川原平著(文藝春秋)
 新解さんとは新明快国語辞典の事。当然多くの人が持っているはずで、思わず再度引き直すことになるのではないか。これほど可笑しい事を堂々と辞書という真面目面したものが語っているという驚愕の事実にひたすら笑うしかないのである。

○うるさい日本の私/中島義道著(新潮文庫他)
 これは哲学の先生が書いた驚くべき日本の現実の告発本なのだが(今でも現状はほとんど変わっていない)、言われてみるとその通りということなんだが、読んでいくうちに何がいったい異常なのか訳が分からなくなってしまう。ある種の情熱の本とも言えて、お気の毒だが笑うしかない。

○もてない男/小谷野敦著(ちくま新書)
 小谷野の文章は威圧的なのか崩しているのかのバランスが混ざっているのだが、それはたぶん彼なりのユーモアなのである。しかし彼の正直さと怒りのバランスが過剰になるほど可笑しくなるので、なんだか悲しくもあるという話だ。その妬みの方向は危なっかしいのだが、正直身につまされる痛みであるのも確かである。
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あんまり来て欲しい訳ではないが

2012-07-10 | 雑記

 仕事柄仕方のないことなんだけど、営業の人が頻繁に来ることが続くと、本当に仕事に支障が出る。相手の方もお仕事なんだからむげに扱うことはやはり難しく、しかしだからと言ってぜんぶ付き合うのはやっぱり時間の無駄だ。多くの場合最初の段階で(つまり玄関先で)冷たくお断りすることが多くなる。この場を借りてごめんなさい。
 しかしながらいろんなタイプの営業の人がいるもので、こちらも何となく人間観察することがある。車から降りてすぐに唾をペッペッと吐きながら出てきて、玄関ドア(自動)をくぐるとガラッと爽やかになる人もいたし、逆にどうにも道に迷ったような顔をしながら歩いてきて、なかなかどうして押しの強い引き下がらない人もいた。いつも見ている訳ではないが、誰か来たのは分かるのだから、その様子から営業は始まっていると学んだ次第である。
 いつも来るような営業の人の中には、何の用事で来たか分からない人もいる。いわゆるハマちゃんタイプの人というのは本当に居るもので、他のスタッフとも馴染になっていて、一瞬一緒に仕事をしている風に溶け込んでいたりする。ある意味でプロなんであるなあと、ほんの時々感心する。
 ものを売り込みに来るのであるからある程度気合が入っているのは当たり前だが、妙に印象に残るというか、目に力のあるような人が居るのも確かである。そういう人は、何となく印象にも残っているもので、やはりお願いに行くというときは、そのような気合のようなものは大切かもしれないとは思う。もちろん人には相性のようなものもあるから、単に僕がそのような人を好ましく思っているだけかもしれないが、ただ件数を回っています、というような人が多い中で、たとえ簡単には仕事に結びつかないまでも、そのような心がけの人は、それなりに成果があって当然なのではないかと想像するのである。まあ、たぶんだけど。
 実際のところ欲しくないものを買うなんてことはない訳で、営業で勧められたからと言って、現在自分が欲しないものを買うような事はありえない。しかしながら考えてみると、最初は営業で会った人だったな、というようなお付き合いの人も居ないではない。つまりありえないと言いながら、やはりそうやってものを買う場合もある訳だ。もちろんタイミングだとか単なる運とか縁のようなものでしか説明がつかないのだけれど、要するに、絶対無駄ということはやはり言い難い。僕は営業という仕事をしている訳ではないのだけれど、やはり営業マンというのは、仕事の基本のようなところはあると感じている。相手から仕事を頂かないことには、仕事自体が始まらない。そういう意味では、疎ましく思いながらも、やはり営業マンには頑張って欲しいと思っております。
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子供の頃に妙に感動した覚えが    ザ・ドライバー

2012-07-09 | 映画

ザ・ドライバー/ウォルター・ヒル監督

 子供の時に観てえらく感動した覚えのある映画(もちろんテレビの洋画劇場)。なんで今回見返す気になったのかは、やはりどうしても思い出せない。どれくらい子供だったのかというと、この映画を見てからピックアップのトラックのミニカーを買った(たぶんフォードのブロンコ)くらいだから小学生だったのではないか。見返してみると随分大人の雰囲気の映画であることが分かるのだが、カーアクションだけじゃなくてライアン・オニールのカッコ良さにしびれたのだと思う。いつも何となく悲しそうにしているのに、クールでいいのである。イザベル・アジャーニもこの映画で顔を覚えた。もっともこの映画以外では明るい美人で、後でびっくりしてしまった。
 強盗犯を逃がす車の運転手が主人公なのだが、最後まで結局この主人公の名前すら分からない。他の登場人物も、いわゆるキャラの立った人たちが揃っているのだけれど、結局名前はどうでもいいらしい。アクション映画ではあるけれど、いろいろと心理ゲームを楽しむ展開にもなっていて、結末もなかなかのひねりである。さすがに名作は違うのである。
 この映画にはいろいろ印象に残る場面が多いのだけれど、銀行強盗の片割れが、復讐のために依頼伝達役の女を脅す場面がある。銃を口に突っ込んで怖がらせた後に、ドライバーの居所をまんまと聞き出すことに成功する。女は「まだ死にたくない」というのだが、枕を顔にかぶせて撃ち殺してしまう。そしてチンピラは「そうだろうな」とつぶやくのである。僕はこの場面を見てから、例え秘密をばらすにしても殺されてしまうのだから、本当のことを言う必要はないのだと学習した。もちろん、今に至るまで、その教訓を活かす機会には巡り合っていない訳だが…。
 もちろん細部は忘れていたけれど、大筋ではけっこう覚えているものだった。子供の頃の集中力は大したものだな、と自分に感心した。もっとも最近は何度見ても新鮮な気分を味わえる程度にすぐに忘れてしまえるので、何度も映画を楽しめて得だということもいえそうだ。得をしているくせにちっとも嬉しくないが残念ではあるのだけれど…。
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お天道様には逆らえない

2012-07-07 | 散歩

 杏月ちゃんは自分が可愛いということを自覚していると思う。事実可愛いのだから自覚して当然だとは思うが、可愛いのにもかかわらず可愛い子ぶるのですさまじく可愛くなってしまって、いささか可愛らしさが過剰になり過ぎるきらいがある。僕は言うことを聞かざるを得なくなり、つまり奴隷化してしまう。
 その杏月ちゃんが今の季節は限りなく不満そうである。外が雨だからだ。お散歩は大好きだけど、体が濡れるのは耐えがたいようで、水が嫌いというより、怖がってすらいる様子だ。いつものように朝から家人たちが活動を始めると(うちの家族は僕以外朝が早い)、そわそわして僕を起そうと必死になっている。やっと重い腰をあげて起きることに決めると、とにかく外に出るまでうろついて落ち着かない。仕方が無いので新聞を取りに外に出ようとすると、玄関のドアに飛びかかって「早く!」とアピールする。そうしてドアを開けると外は雨だ。勢いよく出るものの足取りはすぐに戸惑いに変わり、ひさしの下に入って濡れてしまった足と僕の顔を恨めしそうに見上げる。もちろん雨が降っているのは僕のせいじゃないんだけど、たまらなく申し訳ない気分になる。しかしこれで納得がいっている訳ではなさそうで、言葉が通じないというは本当につらいものなのである。一旦は仕方なさそうにしているものの、少し時間が経過すると、もうやんだはずだという顔をしてズボンの裾を咬んだりする。僕が外に出るそぶりを見せないと、やはりどうしても不満という顔をしている。こういうことが続くと本当に精神的にもつらくなる。天には逆らえないということをどうしたら理解してくれるだろうか。今の季節の悩みは続くのである。
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最後においらはなんと言うだろう

2012-07-06 | 感涙記

 子供たちも大きくなってきたんで、僕ら夫婦ももうしばらくしたら死ぬだけだな、というような会話が多くなる。世間的にはまだまだということも言われないではないが、少なくとも今まで生きてきた時間以下であることはほぼ確実で、元気に過ごせるという時間を考えると、もうそんなには無いだろう。それでいいのかというのは別の話だが、まあもう残りの方が少ない組に入っていることは間違いなかろう。人間の一生なんて、あんがい短いもんだね。まあ、十分と思えるくらいに達観出来てないだけの話かもしれないけれど。
 とまあ、気分はぜんぜん若々しくない夫婦なのだが、僕個人的には、やはりそんなに死に急ぎたくはない。もちろんつれあいより長生きもしたくないが…。そうして気分が寂しくなってくると、どういう訳か今聡を思い出す訳だ。
 今聡の作品自体が素晴らしいものだし、僕は遅れてきたファンではあるにせよ、その才能には驚愕するばかりだ。クリエイターというのは作品がすべてだから、その私生活はどうでもいい話だというのも、話の上では理解している。そうではあるけれど、今聡の最後のブログは、やはり作品としてというより、かなり強烈な印象の残るものだ。

KON’S TONE「さようなら」

 そうしてやっぱり、こんなようにカッコ良くは、とても生きられないな、と思う。もう少し駄々をこねながら時間を潰すのももったいない話ではあるし、考えどころではあるかもしれない。これはやはり、もう少し修行をさせていただかなくてはなるまい。
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ふざけて下品で、かつハートウォーミング    無ケーカクの命中男(ノックト・アップ)

2012-07-05 | 映画

無ケーカクの命中男(ノックト・アップ)/ジャド・アバトー監督

 酔った勢いで事に及んで、そのまま妊娠してしまった後の騒動をそのまんま映画にしたような作品。いや、そのまんまだけど、一方的に失敗したのは明らかに女性の方である。酔っていたとはいえ朝になってみると、何故こんなことになったのか自分でも後悔するようなイケてない男にげんなりしてしまう。もう二度と合うこともないだろうし、若気の至りだったと諦めようとしていたところが、しばらくするとつわりが始まってしまう。折しも仕事の上でもチャンスが巡ってきており、何とかこの難局をやり過ごそうとするのだが、いかんせん妊娠は現実で、仕方なくいやいやナンパの相手に電話することになるのだが…。
 悲劇が客観的には喜劇であるのは当たり前のことだが、これが当事者だと泣くにも泣けない状況であるところが、実に泣かされるというか、笑わされる。いろいろ折り合いをつけて上手くやろうとするのだけれど、男の方はその友人たちも含めてどうしようもない馬鹿ばかり。子供ができたというのに、ナンパの続きでまたやれるということしか頭にないように見える。普通ならこれは堕胎して男と別れる事が一番賢明であることは明らかそうなのだけれど、やはりそれは妊娠した女性の複雑さもあるのだろう。そのうちどんどんお腹は大きくなっていく。
 しかしながらそのような悲劇でありながら、徐々にだけれど、だんだんと温かくなるような、そういう展開もチラホラ見られるようになり、ただのバカで無責任で脳無しのように見える男が、あんがい自分なりに誠実になろうとしていることも見て取れるようになる。男というのは単にモテないオタクだったにすぎないだけで、まだまだ大人になりきれてないという存在だったのかもしれない。特に女を陥れようだとか、そういうことを考えている訳でなく、思った以上にナンパが上手くいって、その上関係までもてて有頂天になっていたにすぎないのだった。しかしながら難しい状況にあるのは頼りなくも理解していない訳ではなく、そのちょっとおかしいけれど素直な言動によって、まわりのまともそうに見える人々の方を、少しづつ変わらせることに成功していくのである。妙な逆転劇ということも言えて、なかなかどうしてよく出来たお話なのである。
 世の中にはできちゃった婚というカップルはそれなりにありふれた事であるように見える。人は社会性のある生き物だから、ある程度の倫理上の事であれば、やはり守ろうとするということなのかもしれない。もちろん結婚という結論について、踏ん切りをつける事件であるということも大きいだろう。酔った勢いでの過ちということになると、さらにそのハードルは高くなるのだけれど、いわゆる望まれた出産でもない事なのに、大きく人生を変える転機になりうるということだ。子供という現実は人間の頭や都合とは一切関係が無い。結局人はその自然現象に、従うか、または真剣に付き合うということなのだ。別にお説教くさいお話では微塵もないのだけれど、そのことによって実は、人間は人間らしい考えを獲得していくのかもしれない。ふざけた下品なコメディだけれど、冷たい映画という訳ではない。情けない笑いを通して、妙に温かい気分になる変な映画なのであった。
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地道に地下にもぐりますか

2012-07-04 | 時事

 7月からのレバーなどの生食提供禁止騒動では、日本はナチスばりの強硬手段を取ったことによる普通の反応だったと冷静に感じるが、しかし日本国民と日本政府はそんな国であることは間違いが無いだけの話だから、静かに深くため息をつくしかないとは思っていた。しかしながら今回の処置以降は、むしろ肉の生食による食中毒のリスクは高まったという見方が出ている事も付記しておきたい。
 ひとつは、肉は焼いて食べろという指摘に対して、あえてあまり焼かなかったりする人を増やしてしまうという問題だ。生で食べる事ができない事が分かっているために、焼くためだとはいえ生の状態でてくる肉を焼かなくなる人は普通にいることだろう。生食用に提供されている訳でもない肉なので、かなり危険度は高まるが、果敢に挑む人がいないとは限らない。また、禁止前の駆け込み需要で、新たな生食ファンのすそ野を広げてしまった可能性もあろう。今まで生食と関係ない人にプロバガンダしてしまったことにより、反感意識は広がりをもってしまっているかもしれない。
 もう一つは、生食が禁止だということで、消費者のリスクに対する認識が低下してしまうことだ。店側が出すものに対して規制が厳しくなっているのだから、提供されるものが安全であるのが当然だというものだ。問題があれば店側に責任を問えばいい、というような合理的な行動にも思われるが、死んだあとにどうするのかという問題は考えていないようだ。また、生レバーなどの種類でない肉においても、食中毒のリスクはある訳だが、その他の肉においては関係ないと勘違いする人も出てくるかもしれない。僕なんかは常に焼くのは半生一貫人生を歩んでいるのでリスクはそんなに変わらないが、そのような人が増えるのは、店にとっても危険度が増しているということになろう。
 禁止することによってかえって食中毒が増えるということになると、規制がさらに強化されるという悪循環に陥る可能性も出てきたということだ。生食というのは思いのほか長く深く根付いた日本の文化と考えられる。江戸時代だって武士が食わなかっただけの話で、いわゆる庶民が肉を食っていた事も知られている。特に最近になってやりだしたような個人的な感覚で論じるのは極めて横柄なことのようだ。最終的には他の食材に波及するというような予感まで残している訳で、ほとんど犯罪行為である。
 そもそも禁止するという対応こそが、安易なる無責任対応に過ぎないのである。無いものは無くなるというのは、現代人が単純化したという証明に過ぎない。ましてや今回のように、問題を起こしたユッケから端を発して、調べてみるとレバーの方が重篤そうに見える問題の要素が見つかってしまい、慌てて先走って厳しい規制に走り、さらに8割近い反対世論を押しのけて実行してしまうという暴挙を成立させてしまった。おそらく善意や正義感が根本にあるということだから性質が悪くて、旧日本軍のように撤退する機会を逸して取り返しのつかない事をやってしまったという恥ずかしさである。もちろんそういうことを感じない程度には厚顔なのだろうことがさらに腹立たしいのである。
 さてしかし、いくら対抗しようにも、大声でやると相手のコダマの反響も大きくなるということだ。文化だから無くなりはしないが、敵はある程度見せしめを欲している可能性もある。ほとぼりが冷めるまで静かにしていると、摘発するのを忘れる可能性は少しだけ残っている。もともと1998年以降、生レバーによる死者は無いという(それ以前はあったんだね)。絶対安全なんてそもそもありえない訳で、食文化を食いつなぐことは、地下の活動にかかっているということになるのであろう。
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リサーチの大切さを学ぶ

2012-07-03 | 境界線

 先日のセミナーでデフレでも強い商品開発という(このテーマ自体がいろいろ問題が既にあるような気がするが、論旨がずれるので棚上げする)事を説明するために「AKB48」を題材に取り上げていた。言いたいことは既にそこでほぼ分かる気がしたが、しかしそのためにか、聴衆の3分の2はそれ以後興味を失い寝てしまった。問題は聴衆の平均年齢が高すぎたせいもあると思うが、ひとえに題材に興味が持てな過ぎるということが敗因だったと思われる。講義自体は構成もよく出来ていたのだが、材料が悪いとなかなか食いつきは戻りはしない。僕は眠くなくて全部聞いたけれど、オーディエンスがどういうものか、リサーチが失敗した例として記憶に残ることだろう。
 AKBの存在を知らない訳では無かろうが、いくらヒットしたモデルといえども、興味が無いものは仕方が無い。僕自身も飲み屋さんで女の子たちが歌う歌としてしか知らないし、テレビで現れても視線は別のことに移ってしまう。興味が無いというより少しだけ不快なのかもしれない。しかしそうではあっても、AKBが魅力的な人にはゆるぎなく絶大なのだろうことは何となく分かる。ファンというのはそういうものだし、その仲間内ではそういうものを楽しんでも支障はない。要はそれを外に持ち出して欲しくないだけの問題だと思う。それだけ市民権を得た存在であるとか、現象であるという認識を持ちたいのは分からないではないが、さらに言うとそういう気分を分かりあえたくないというのが、一般的にはあるような気がする。そういうものが楽しいという人がいることはそれでいいのであって、やはりそれ以外の人は楽しくもなんともないからである。
 問題はそれで終わりなのだが、講義が終わって司会の方がこの話題に食い付いて、さらに持論を披露していた。フォローをする必要を感じているというよりは、自分も本当にファンであるために、カミングアウトしたついでに持論を言いたくてたまらないという感じだろうか。それでさらに感じたのだが、こういう感じがおじさんやおばさんにはウケない原因なのだと思う。嗜みというか、何となく気恥ずかしく品が無い。少しくらいは見てもいいとは本当は思っているのだけれど、このような熱を持ってしまうことが恐ろしいのだ。
 モノの売れなくなっているように見えるときにAKBに学ぶべきものがあるというのは、分かるものには分かりやすい材料であるのかもしれない。しかし残念ながら、そういう材料で理解したくないという心理が働くのは、そういうもので分かりたくないということに過ぎないのだと思う。そういう態度だから駄目だといわれるとそれまでなのだけど、だからさらにモノを売るセンスは磨かれることはないということで、将来は暗いということなのかもしれない。そういうことの証明だというのであれば、示唆的な出来事だったのであろう。でもそれで、さらにAKBが一人勝ちを続けるのであれば、それはそれで彼等(関係者というか)にとっては、いいことなのではないだろうか。
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傷跡の残りを追う僕ら

2012-07-02 | 雑記

 仙台空港に降り立ったすぐは、何となく拍子抜けするような感覚があった。傷一つないというか、実にきれいな空港である。滑走路だって何の変哲もなかった。普通に自然に降り立って何の問題があるのか、という佇まい。小さな飛行機だったので、歩いて到着口まで移動したのだが、僕らとともに降り立った人々も、普通の観光然として写真を取りあったりしている。のどかで気持ちのいい風も吹いている。
 レンタカーを借りて移動することにしていた。一行では僕がいちばん若いので運転手係である。受付窓口に行く前に、担当者に被災地を紹介してもらうように言われるが、その時点で何となくモヤモヤしたものを感じている。沖縄などでも感じることだが、僕らのような一行が、観光がてらに被災地や戦地跡を見ることの後ろめたさのような感覚。窓口の人がどの様な境遇の人かは不明だが、被災地の人であることには変わりは無かろう。僕がその役を一人でやりたくないというのはあるのだけれど、僕自身も被災地を見たいという感情があるのもまた確かな事だ。観たいがどのような振る舞いで訊ねるべきなのか。遠慮があって当然だろう。
 結局空港周辺と、有料道路を通って石巻まで足を延ばすことにした。道によっては通れないところもあるので、くれぐれも気をつけるように言われる。ごく自然なセールストークにも反応している自分のナイーブさに、さらに無頓着の僕以外の仲間たちにも軽いいらだちを覚える。運転中もなんとなく物静かに不機嫌そうにしていたかもしれない。
 多少草が伸びているので分かりにくかったが、基礎や建物の土台まで綺麗に無くなっているところが多い。そしてその基礎の部分のあちこちに、花が手向けてある。だだっ広い平原のような風景に、そのような花々が無言の声をあげている。残った建物の一階部分はがらんどうになっている。もちろん人の気配はないし、時折大型のダンプカーが数台連なって走っている。海岸線に生えている松のほとんども枯れているように見える。映像で見覚えある風景だが、やはりずいぶん広いものだ。しばらく車を走らせているが、海岸線から少し離れた場所になると、どんどん新しい住宅が建っている。ここは実際に被害がどうだったのかは分からないのだが、それでいいのかどうか、そんな心配がしたくなるような真新しい住宅群の連なりに、やはり複雑な気分になった。
 しばらく有料道路をひた走り、石巻の漁港あたりまで行くことにする。これも重機が忙しく働いており、ダンプカーの交通も多いようだ。船も停泊しているし、トロ箱のようなものやらコンテナなども積まれている。ある程度は漁獲の作業は普通に行われているようである。防波堤に目をやると、街路灯が順に傾いている。倉庫や建物はきれいに無くなっているか、基礎や骨組だけになっているようなものが残されているという感じだ。もちろん既に綺麗になっている建物も相当にある。やはり工事をしているところが多くて、基礎を幾分高く積み上げて、新たな建物を建てるという準備をしているようであった。そのごく当たり前な感じがまた、どういう訳か引っかかるような不安な感じがする。復興はたくましく喜ばしい事のようでいて、しかし被災地の上にまた新たなモノが立つ不安に、複雑なものを感じるのであろう。
 大きな橋を渡って遠くまで見渡せる場所に来ると、改めて息をのむ風景が広がっている。製紙工場はモクモクと蒸気をあげて動いている様子がある一方、その周りはガレキや車がうず高く積まれている。学校や病院のような建物の窓という窓は黒く口を開けている。そうしてやはりその手前の建物は見事に根こそぎ何もない。時々大きな建造物の破片やタンクや土管の様なものが横たわっている。大きすぎて移動できないものが残っているということなのだろう。同行の者たちは口々に呻くような声をあげている。しかしそれはやはり見たかったものということでもあり、どこか僕は後ろめたい。
 結局帰りに松島を見て行こうということになる。行ってみると随分たくさんの観光客の群れと遭遇する。そのコントラスト。想像以上に俗だけれど、妙な安心感のあるところだった。もちろん近づくと防波堤はあちこち傷んでいる。観光船は多くの人々を運んで島々を巡っている。
 観光が悪いということを言いたい訳ではない。むしろ早く日常的に人の流れが戻ることの方が、本当に望ましい復興の姿であるだろう。しかしながら僕らはどういうものなのだろう。もちろん悪意の団体なのではない。ナイーブ過ぎる僕の方が水を差して中途半端なのも分かっている。そうなのだけれど、やはりなんだかモヤモヤは晴れない。こうした風景を見たかった自分の気持ちは正直だが、そういう思いが素直に出せるという気分になりたくないのである。
 義捐金や復興支援物資を送ったりということは一通りやってはきた。しかしそれで十分だったとはもちろん思えない。何かをしたいという気持ちと、何もやれないというもどかしさも同時に感じてはいた。今回の研修についてもあえて被災地開催というのは、主催者側の前向きな考えを反映してのものだし、僕も出来ればもっと早くにでもそうすべきだという考えを持っている方だ。しかしながらそうであっても、僕らは単に観光をしているだけではないのか。そんなような現実の行動しかしていないではないか。具体的にボランティアをすることだけが偉い訳ではないのだけれど、そうしてやはり現実にやれることはやはり限られているのだけれど、自分の中のもどかしさや歯がゆさのようなものは、現地にいて少しもぬぐうことができないのであった。
 仙台市内は落ち着いてかつ活気のあるものだった。夜には飲み歩き、そして多少深酒も過ぎた。勉強だって、まあ、まじめにやった。それのどこにも何の落ち度なんて微塵もなかろう。しかしながらそういう安全圏の自分の姿が、僕にはなんだか嫌だったのである。
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