カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

地道に地下にもぐりますか

2012-07-04 | 時事

 7月からのレバーなどの生食提供禁止騒動では、日本はナチスばりの強硬手段を取ったことによる普通の反応だったと冷静に感じるが、しかし日本国民と日本政府はそんな国であることは間違いが無いだけの話だから、静かに深くため息をつくしかないとは思っていた。しかしながら今回の処置以降は、むしろ肉の生食による食中毒のリスクは高まったという見方が出ている事も付記しておきたい。
 ひとつは、肉は焼いて食べろという指摘に対して、あえてあまり焼かなかったりする人を増やしてしまうという問題だ。生で食べる事ができない事が分かっているために、焼くためだとはいえ生の状態でてくる肉を焼かなくなる人は普通にいることだろう。生食用に提供されている訳でもない肉なので、かなり危険度は高まるが、果敢に挑む人がいないとは限らない。また、禁止前の駆け込み需要で、新たな生食ファンのすそ野を広げてしまった可能性もあろう。今まで生食と関係ない人にプロバガンダしてしまったことにより、反感意識は広がりをもってしまっているかもしれない。
 もう一つは、生食が禁止だということで、消費者のリスクに対する認識が低下してしまうことだ。店側が出すものに対して規制が厳しくなっているのだから、提供されるものが安全であるのが当然だというものだ。問題があれば店側に責任を問えばいい、というような合理的な行動にも思われるが、死んだあとにどうするのかという問題は考えていないようだ。また、生レバーなどの種類でない肉においても、食中毒のリスクはある訳だが、その他の肉においては関係ないと勘違いする人も出てくるかもしれない。僕なんかは常に焼くのは半生一貫人生を歩んでいるのでリスクはそんなに変わらないが、そのような人が増えるのは、店にとっても危険度が増しているということになろう。
 禁止することによってかえって食中毒が増えるということになると、規制がさらに強化されるという悪循環に陥る可能性も出てきたということだ。生食というのは思いのほか長く深く根付いた日本の文化と考えられる。江戸時代だって武士が食わなかっただけの話で、いわゆる庶民が肉を食っていた事も知られている。特に最近になってやりだしたような個人的な感覚で論じるのは極めて横柄なことのようだ。最終的には他の食材に波及するというような予感まで残している訳で、ほとんど犯罪行為である。
 そもそも禁止するという対応こそが、安易なる無責任対応に過ぎないのである。無いものは無くなるというのは、現代人が単純化したという証明に過ぎない。ましてや今回のように、問題を起こしたユッケから端を発して、調べてみるとレバーの方が重篤そうに見える問題の要素が見つかってしまい、慌てて先走って厳しい規制に走り、さらに8割近い反対世論を押しのけて実行してしまうという暴挙を成立させてしまった。おそらく善意や正義感が根本にあるということだから性質が悪くて、旧日本軍のように撤退する機会を逸して取り返しのつかない事をやってしまったという恥ずかしさである。もちろんそういうことを感じない程度には厚顔なのだろうことがさらに腹立たしいのである。
 さてしかし、いくら対抗しようにも、大声でやると相手のコダマの反響も大きくなるということだ。文化だから無くなりはしないが、敵はある程度見せしめを欲している可能性もある。ほとぼりが冷めるまで静かにしていると、摘発するのを忘れる可能性は少しだけ残っている。もともと1998年以降、生レバーによる死者は無いという(それ以前はあったんだね)。絶対安全なんてそもそもありえない訳で、食文化を食いつなぐことは、地下の活動にかかっているということになるのであろう。
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