カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

経験を絶対視する未来は暗い   「地球のからくり」に挑む

2012-07-25 | 読書

「地球のからくり」に挑む/大河内直彦著(新潮新書)

 現在のエネルギー政策について語ろうとするとき、311の影響が大きすぎて、すぐに脱原発か否かというような声高なものになりがちである。それはそれで大変重要だとは思うものの、やはり戦争中の非国民吊るしあげのような感じで議論にすらなっていないという気がする。もしくは文化大革命の頃の空気もこんな感じだったのではあるまいか。
 問題は地球の歴史から遡る必要があるのかもしれない。そんな流暢な、と感じる向きには、この問題の根本を見失う人である。地球や宇宙の仕組みを知らずして、エネルギー問題の根本は理解しえないのである。ましてや人間が登場してからの問題は、その仕組みを利用して培養して拡大しているようなものである。近代はそれが行き過ぎていることも確かだけれど、基本的に原子力を含め地球の資源を利用していることに変わりはない。そういう中で日本という国があって、他国との関係性の中でどのような立ち位置を持つのか、ということを順に考えていかなくてはならない。自分の好ましいものや利益だけで何かを考えていくのには、あまりにも近視眼的過ぎるということになるのであろう。
 そのような道筋の基本的なことを頭にいれこんでおくことが、自分の立ち位置を明確にする唯一の方法だと思う。他人のモノサシで無く、自分自身の考えを進めるためにも、最低限の知識は必要だということだ。知らなかったり、間違っているまま、自分の考えを上乗せして議論を進めても、建設的な結果を得られる訳が無いのだ。本来はそういうものをリテラシーというべきなのだと思うが、しかしその前段階で拒絶してしまう人が如何に多いことか。残念ではあるが、それほどの単純化思想が現代化というものの正体である。世の中は誰かの陰謀や、一部の利益のみで成り立っているのではない。結局そういう仕組みを理解しないために、安易にそのような考えに飛びついてしまうだけの事である。
 それにしても、著者が告白している通り、このような問題を専門家が一般の人たちに語る言葉が本当に足りないのだと思う。もしくは理解しうる言葉に変換する術を怠っているということも言えるだろう。基本的には研究を進めていくことが自らの使命ではあるとは思うものの、一般の人たちは理解しえないものを、誤解し続けるより無いという不幸の連鎖が続いてしまっている。結局その不理解というものが、誤解を越えて不信という症状で拒絶するということを生んでしまっている。正しいものが混じっている情報も、不都合そうに見えるというだけで、頭から信用しないということをしてしまう。その上で、間違った情報であっても、好ましいものに見えるようであれば、平気で採用して流布してしまう。既に元になって議論する土台すら失ってしまっている状態で、議論を始めるずっと以前の段階の混沌としている中で、状況判断をせざるを得ないということも起こってしまっている。さすがに酷いものは軌道修正できるものもあるだろうが、既に手遅れになっているようなものも生まれているようだ。間違ったものを元に判断をするのだから、その結果が既に残念だというのは当然のことである。そのような選択を僕らは子孫に残すということをしている訳で、いくら賢い次世代の人間であっても、破壊された土台で未来を作って行くことは足枷を科されているようなものだろう。感情は厄介なものだけれど、本当にコントロールできないものなのだろうか。この本の〆の言葉を引用するならば、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ということに尽きる。
 残念ながら人々の感情は、オイルショックや震災という経験に学んできたと言わざるを得ない。そうして政策が決定されている現実を思うと、やはり現代人はこの本を読むべきだということになるのだと思うのである。既に巷間では評価もされているが、改めて広く読まれるべき本だろう。
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