市のPTAの幹部研修会というものを受けた。日曜の半日をどのように費やすものだろうと不安もあったけれど、受けてみると感慨深くなかなか感じ入った研修であった。役員のまったくの手作りながら、参加者の意識(各単Pの会長ばかりだし)が高いので、それぞれの意見の水準も高いのである。みなさん頑張ってるんだなあということが何より励みになって、僕自身のモチベーションがかなり上がるのを感じるのだった。まあ、いつものようにちょっと私見を交えた脱線をしてしまうのは愛嬌だが、社会認識というか、認知に違いがあるので仕方がない。やはり常識の壁は厚いなあとも感じたのだが、またその話は別に解説しよう。
最後に教育長の話も聞けたが、この話も僕の中学時代の荒れた学校での取り組みなどを交えてのもので、一気に昔の記憶が蘇って、なんだか悲しい気分にもなった。二度と戻らないし戻らなくてもいい時代の話なのだが、なんであれほど荒れた時代があったのかといまさらながらに思う。先生がおっしゃる意味などまったく理解しないまま日々を過ごしていたわけで、先生の中にも奮闘して悩んでいた人間がいたことも改めて知ることになった。いろいろあるにしろ、やはり教育長になるべくしてなられた人なのかもしれないと感じるところも多かった。お体に気をつけて頑張って欲しいと切に思うのであった。
さて、そういう訳で以前の荒れた時代のことが少し話題になったりしたが、ものすごい人はそのレベルですごかったわけだが、結果的に思いとどまることができたり後に更生できたりしたのではないかという疑問を投げかけられて、ちょっと戸惑った。いや、僕は不良としては半端な人間で、自慢のできるような悪事を働いてきたということではないのかもしれないけれど、その当時に激しく踏み外さなかったというのは、単に運が良かっただけのような気もするのである。友人にも踏み外していく人があり、悲しいような複雑な思いがあったにしろ、結果的に僕は裏切られたという思いも残っている。そういうことがあって、この社会ではやっていけないと見切ったというのが正直なところで、今となっては裏切られてあの社会から排除された人間にすぎないという気もしないではない。暴力についても、何度も(特定のだが)人を殺したいという明確な思いを抱いていたし、そのためにポケットにナイフを忍ばせていたこともある。後一歩で殺すところまでいって、結果的に刺せなかったことがあるのだが、それは相手がシンナーでふらふらだったからだ。こんな人間を刺して刑務所に行くのは明らかに割に合わないと、判断できるほどには大人だったのである。普通の喧嘩のような流れだったら、おそらく行きがかり上刺していた可能性は高かったと思う。結果論だが、つくづく運が良かった。運命とはその人が持つ運だと思うことがあるのも、そのようなギリギリの体験の蓄積の所為ではないだろうか。それが結果的に良いことだとか悪いことだとか、後からの人間が後付けで判断することに何の意味があるというのだろう。事実荒れた時代があって、その中をたまたま通りすがりで生き延びてきたにすぎないのである。
さて、しかし今はやはり平和でいい時代だと思う。モンスター何とかとか言っているけれど、僕らの親たちよりは数倍おとなしい親の方が断然大多数の世の中である。現実の困った人のほとんどは親ではなく、地域の年寄りの方であることがほとんどだ。現実をもう少し素直に見て、そうして現実的に物事を考えていかなければならない。ある小規模校の会長の話では、小規模にモンスターはあり得ないとのことだった。結果的にお互いに目に見える立場の構築ということが大切ということなのだろう。
最後に教育長の話も聞けたが、この話も僕の中学時代の荒れた学校での取り組みなどを交えてのもので、一気に昔の記憶が蘇って、なんだか悲しい気分にもなった。二度と戻らないし戻らなくてもいい時代の話なのだが、なんであれほど荒れた時代があったのかといまさらながらに思う。先生がおっしゃる意味などまったく理解しないまま日々を過ごしていたわけで、先生の中にも奮闘して悩んでいた人間がいたことも改めて知ることになった。いろいろあるにしろ、やはり教育長になるべくしてなられた人なのかもしれないと感じるところも多かった。お体に気をつけて頑張って欲しいと切に思うのであった。
さて、そういう訳で以前の荒れた時代のことが少し話題になったりしたが、ものすごい人はそのレベルですごかったわけだが、結果的に思いとどまることができたり後に更生できたりしたのではないかという疑問を投げかけられて、ちょっと戸惑った。いや、僕は不良としては半端な人間で、自慢のできるような悪事を働いてきたということではないのかもしれないけれど、その当時に激しく踏み外さなかったというのは、単に運が良かっただけのような気もするのである。友人にも踏み外していく人があり、悲しいような複雑な思いがあったにしろ、結果的に僕は裏切られたという思いも残っている。そういうことがあって、この社会ではやっていけないと見切ったというのが正直なところで、今となっては裏切られてあの社会から排除された人間にすぎないという気もしないではない。暴力についても、何度も(特定のだが)人を殺したいという明確な思いを抱いていたし、そのためにポケットにナイフを忍ばせていたこともある。後一歩で殺すところまでいって、結果的に刺せなかったことがあるのだが、それは相手がシンナーでふらふらだったからだ。こんな人間を刺して刑務所に行くのは明らかに割に合わないと、判断できるほどには大人だったのである。普通の喧嘩のような流れだったら、おそらく行きがかり上刺していた可能性は高かったと思う。結果論だが、つくづく運が良かった。運命とはその人が持つ運だと思うことがあるのも、そのようなギリギリの体験の蓄積の所為ではないだろうか。それが結果的に良いことだとか悪いことだとか、後からの人間が後付けで判断することに何の意味があるというのだろう。事実荒れた時代があって、その中をたまたま通りすがりで生き延びてきたにすぎないのである。
さて、しかし今はやはり平和でいい時代だと思う。モンスター何とかとか言っているけれど、僕らの親たちよりは数倍おとなしい親の方が断然大多数の世の中である。現実の困った人のほとんどは親ではなく、地域の年寄りの方であることがほとんどだ。現実をもう少し素直に見て、そうして現実的に物事を考えていかなければならない。ある小規模校の会長の話では、小規模にモンスターはあり得ないとのことだった。結果的にお互いに目に見える立場の構築ということが大切ということなのだろう。