カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

グーグーだって猫である

2008-07-29 | 読書
グーグーだって猫である/大島弓子著(角川書店)

 僕は犬を飼っていて、単純にネコかわいがりをする自己中心的な性格の飼い主である。犬の気持ちが分かっていると口では言うが、おそらく全然分かっていないのだろうという自覚さえない。もちろんそれで反省すらしない。誰が何と言おうと、たとえ飼っている犬が不幸だろうと、僕は犬がかわいくて仕方がないのだ。それがエゴの本質だろう。
 犬にも人格(犬格?)があるというような話を聞くことがあるが、それはたぶんないのだろうと思う。犬というものは人間の都合で一方的に飼われていて、たとえそれで飼い主の思うようにいかないにせよ、人格というものは無視される運命である。いや、考慮している人もいるという議論はあるにせよ、飼われているのは犬の選択の結果ではない。「なつく」というのは人間の方が利用している動物の習性なのであって、彼らの選択であると考えるのは都合のよいエゴであろう。まあそういうことで、そういうことを了解しているので、犬を飼うことができるのであると勝手に思っているだけである。
 そういう飼い主の思い込みで動物を飼うということがどういうことなのかという物語なのではないかと思う。この場合猫なのだが、漫画家だから平気で擬人化して人間の姿になったりする。まあ、それはそれで楽しいのでいいのだが、僕はほとんど理解できないことではあった。そのままの姿だからかわいいのに。
 しかしこれは母性というものの物語なのだろうか。餌をご飯と言わなければ罪悪を感じたりしている。これは全く共感できないが、理解はできないではない。僕は人間の飯が餌であってもいいと思うが、それは馬鹿にしているからではない。どっちだっていいし、そもそも餌だからご飯より下だという問題なのではぜんぜん違うと思うだけだ。
 しかし、動物を飼うことは人間の代わりに共同生活をしているということを疑似体験しているということなのだろうか。だから擬人化し、与える食べ物はご飯であろうとする。
 大島弓子にとって猫を飼うということは、男と暮らしていることと限りなく似ているような感じもしないではない。日々の生活に同化し過ぎて、計画性や一貫性が感じられない。いや、そうあるべきだと言っているわけではなく、相対的なまなざしとして、やはり受身なのであると感じる。僕は自分の都合でかわいがるわけで、まあ、逆に振り回されている面はあるとは認めるにせよ、このように一方的に振り回されないような気がする。まあ、その方が楽しいのかもしれないが…。よく病院に行き、しかし猫だから散歩には行かない。家と病院で完結する関係というのは、やはり犬の飼い主にはないまなざしなのかもしれない。
 犬がいいとか猫がいいとかいう問題は、しかしたいした重要なものはない。猫好きと犬好きの人種が違うわけではない。猫好きは放任主義で犬好きは封建主義だとかいうことは、見た目の感覚からもあまりにも遠い根拠のなさと無知からくる誤解にすぎない。そう思うのは勝手だが、意味は無い時間の浪費だ。しかしそれでも猫は、と言いたい人もいることはわかる。意味がないとは分かっているが、不毛だとも思うが、僕は犬飼だから猫の物語が分からないのかもしれない。しかし、この漫画を読む楽しさというのは、そういう問題なのではないのである。
 動物を飼う楽しさの視点と、日々の人間の精神状態の記録である。物事の感受性がどのようなものであるということを作品化すると、このようになる。だから単なる個人の日記なのではない。大島弓子の作家としての本音が、にじみ出るようにこの作品から読み取れる。独自の世界観を展開する筆力を生む才能は、このような日常から生み出される。共感もたくさん得られるが、女というものは何か、猫とは何か、生きていくことは何かというようなことまで自然と考えさせられる作品群になっていると思う。そして動物を飼わざるを得ない人間というものが何なのか、改めて考えてしまうのである。
 まあ、考えてしまうにせよ、考えさせないでも楽しめるので、まずは大島ワールドへ、ようこそである。僕は大島弓子は子供のころから馴染んでいるので抵抗がないだけかもしれないし、ひょっとすると男の中には理解できない人もあるかもしれないが、理解できないでもいいのではないかと思う。いや、むしろ、その方がこの世界はかえって楽しめるかもしれない。男がたぶん観ることのできない世界がそこにあって、実は僕らはそういう世界の住人でもあるなんて、やはり不思議で面白いじゃないですか。
コメント
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