カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

どうで死ぬ身のひと踊り

2008-07-18 | 読書
どうで死ぬ身のひと踊り/西村賢太著(講談社)

 ドメスティック・バイオレンスということが社会現象化しているかどうかは知らない。しかし、いわゆる家庭内暴力というのは、ずいぶん歴史的に古いものだとは思う。昔の人はよく家人を殴ったのではないかと思う。教育が厳しくて、社会化していない場所では、容易に暴力が行われる土壌になっているのではないかと思われる。もちろんそういうことを容認しているわけではない。暴力の連鎖はロクなことにつながらないということだけは分かっている。しかし内と外という区別のある家庭において(そういうものがない世界もあるのだろうか)、腕力の弱い女が被害を受ける確率は格段に高くなることだろう。現在は家庭内暴力であっても、ちゃんと傷害事件として取り扱うようになっている。少なからぬ抑止力になっていることは間違いないだろう。
 さて、そういう暴力がどのような状況で起こるのかというのは、実を言うと僕にはよく分からなかった。つれあいや子供に対して激しい憎悪を覚えるということはまったくないわけではない。むしろ身内ということで、普通より過敏になる場合もある。しかし、だからと言って暴力的になるということは、僕の場合たぶんほとんどない。
 以前酒を飲んでいて、頭にきて家人を殴ってしまったという男の話を聞いたことがある。時にはそれぐらいしなければ効かない場合もあるということだった。「うへえ、そういうもんかね」とかなり驚きながら聞いたものだ。まあ、いいとか悪いとかの前に、そういう性質の人なのか、そうでないのかということにすぎないのだろうと思う。アル中と似たようなもので、止めなければ治らない。殴る人は元には戻らないのではないか。
 まさに僕のそのような考えは確信に変わった。もちろん小説だから創作はあるのだろうと思う。読者のことを考えて、ある意味でサービス精神で書いている可能性もあるだろう。しかし、この話は限りなくリアルな響きが伝わってくる。最初はなんだか突飛な感じもしたけれど、だんだん状況を飲みこんでくると、じわじわ暴力へ引火していく過程がよく理解できる。爆発後もすさまじいもので、この人はおかしいなりにいわゆる素直である。そうして自己嫌悪となんというのだろう、自己防御というか情けなさというか、謝り倒して許しを請う姿までが滑稽を通り越して哀れになるほど正直に吐露される。これは愛というより、男というものの寂しさというか、不完全さというか。なるほど、家庭内暴力の生まれる現場は、このような葛藤があるのだということが実によくわかったのだった。
 もちろんこの男自体にもともとかなり問題がある。読者として共感し憧れる藤澤造と同化してしまう行動は、明らかに度を越している。非常に洗練され美しくある種の品格さえ感じられる文章でつづられる日常生活と、粘着質な執着のある藤澤造への憧憬の姿は、じわじわと破綻へと向かう恐怖心をあおっていく。そして噴火するような大爆発を起こす。なんだか読者の頭をくらくらさせてしまうような衝撃力のあるものすごい小説だ。これは間違いなく文学的にものすごいものだということは、嫌悪を感じながらも認めざるを得ない。正直言って参りましたという感慨さえ抱いてしまう。その後作者はどうなってしまうのだろうと少なからぬ心配を残すが、男という性をここまでさらけ出し暴きだした功績は大きいのではないかと思う。
 正直に言って多くの男は、このような狂気を内在させていながら何とか抑え込み、やっとのことで成長するのだろうと思う。だから普通ならこのような目に見えた爆発はしない。しかしだからと言って男という生物が、この異常な男と別モノだと考えることはできないと思う。僕はこの物語を読んで嫌悪を感じるとともに、素直な共感と恐ろしさを覚えた。しかし自分の本性を語るような恐ろしいことは、社会生活を営んでいる以上とてもできない。そういう自我(というか自己防衛)があるためほとんど正直に語られてこなかった人間性というものを目の前にして、西村賢太という作者の偉大さをつくづく感じることになる。この作品は、文学というものはこのような人間を描ききる力のあるものだ、ということを見事に証明した名作であることは間違いないのである。
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バスジャックって

2008-07-18 | ことば

 また「バスジャック」事件ということで定着しそうである。いや、定着してないのは僕ぐらいのものなのだろうか。以前にはちゃんと「バスのハイジャック」ということをいう人が少なからずいたような気がするが、当然のように「バスジャック」が使われるようになった。せめてジャックという言葉に占拠のような意味があるといいのだが、男性一般を呼びかけるという日本語には意味がわかりづらいものだけに勝手に流用されてしまったのかもしれない。すでに幅広く定着して意味が通じるからいいじゃないか、という意見もあるかもしれないが、ハイジャックとは何かというときに、やはりいちいち問題になるような気がする。素直に日本語のみで(すでに和製英語だからハイジャックは厳密には日本語ではあるが)バスの占拠事件とか乗っ取り事件ということにしてはどうなのか。
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