カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

いつの日か別の日か

2008-07-05 | 読書
いつの日か別の日か/大塚ひかり著(主婦の友社)

 失恋のつらさというか、あきらめの悪さというのは、もちろん性格もあるとは思うが、どうにも切実なくせに、他人事だと滑稽でもある。そういう自分自身というものに対する自覚はあるのだが、あきらめきれないものはどうにもならない。僕自身はそういう自分自身に嫌気がさして、本当にもう一歩でこの世を去るかもしれなかった。いや、死んでないのだから嘘であると思うかもしれないが、本人は本気でそう思っていたように思う。たとえば高い所に登るとフラフラして下を眺める。このまま落ちると死ぬんだよなあ、と思ってさらに泣けてくるのだった。そんな事をしてもどうにもならないということは、それこそ死ぬほど分かっているくせに、生きていてもどうにもならないこれからの人生への失望感というものと、そして現実として(というか、誰もが総理大臣になれるというようなありえない可能性ではあるが絶対に否定できない可能性のようなもの)ひょっとすると彼女の気持ちが変わるのではないかという根拠のない期待がわいてきたりして胸が苦しくなるのだ。聞くところによると女のひとのように髪をバッサリ切るとか、過去の写真を全部捨てるとかするといいのかもしれないとは思うが、写真どころか手紙や一緒に買い物した時のレシートのようなものまで捨てきれない自分がいるのだった。情けないやら悲しいやらでさらに自己嫌悪に陥るが、できないものはできない。別に楽しくないのにヘラヘラ笑って取り繕って平気の平左然としているようなそぶりをして、一人になって疲れてまた死にたくなったりした。
 しかし大塚ひかりである。ああ、女にもこのような女々しい人がいたのだと妙に感心した。感受性としてぜんぜん違うものは感じるが、しかしこの女々しさはよくわかる。いい加減にしろよ、とも正直思うところもあるが、いや、彼女の方が実に正直だ。どうにもならないのにそのどうにもならなさに、さらにもがいても逃げ切れない。そういう自分の滑稽さも赤裸々に描かれていて、実にあっぱれであるとも思う。これは小説なのかどうかよく知らないが、小説という形態なのだろうとは思うが、絶対に本当の話だというリアリティがひしひしと伝わってくる。
 この本を読んで救われる人がどれだけいるのかわからないけれど、これを書かずにいられなかったということも僕にはわかる気がした。たぶん多くの人は、こんなことは書くべきではなかったということだろう。しかしそんなアドバイスなんてまったくなんの意味もないことだと思う。人間の再生というものは、多くの文学が格闘してきたテーマだと思う。しかしやはりどこか格好つけて真実でない演技のようなそぶりがあったのではないか。しかし本当の再生に必要だったのは、泥臭いまでに恥ずかしい自分自身の内部をさらけ出してこそなされることがあるのではないか。それでも本当に再生の道は険しい。
 ちょっとこの女は恐ろしいとさえ思うけれど、実際は大変に勇気のあるというか、前向きではちっともないにしろ、本当に人間というものを正直に語った名著なのではないかと思った。いまさら多くの人が手に取る本ではなかろうが、大塚ひかりはただものではないのではないかと思うのだった。
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