カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

最後の授業

2008-07-07 | 読書
最後の授業/ランディ・パウシュ著(ランダムハウス講談社)

 この本やyou tubeの大ヒットでご存知の方も多いだろう。だから僕が取り上げるまでもないとは思うが(影響力もないし)、多くの人が感動したりしている割に、なんとなく誤解のような空気があるとも思ったので…。
 僕がすぐに思い出したのはマイケル・キートンが主演した「マイ・ライフ」という映画だった。末期癌で余命いくばくかという状態で、妻のお腹の中にいるまだ見ぬ子に向けてビデオレターを作るという内容だった。コメディタッチで、ありがちな悲壮感を売りにした内容で無いのも好感のもてる映画だった。この「最後の授業」もまったくそうで、悲壮な状態は重々わかるけれど、それを目的としていないように見えるのは、著者に明確な目的があるからなのだが…。ともあれその映画では、教訓的な物事だけでなく髭の剃り方の様な生活の技法まで記録して、教えられるものは何でも残しておこうという感じだった。「最後の授業」は時間的制約もあるので、内容は絞り込んでいるということで、それなりに単純化されているのかもしれないとは思った。結論から言うと、動機はよく似ていると思われる。もちろんそのこともこの本に告白してあるけれど。
 もちろん余命がどれぐらいかということが分かっている状況の人は少ない。いや、本当を言うと平均寿命というものがあるので、ほとんどの人は余命がどの程度なのは知っているはずだ。しかし、その切実さということについて、この場合病気だが、残された時間があとわずかであると明確に自覚できる状況は、やはり特殊と考えるべきだろう。
 それはそうなのだが、そういう状況でないと本当に自分の伝えたい事を残そうと思わないのかという疑問が僕には湧いた。これほどまでに強い動機は持たないにしろ、教育というものは多かれ少なかれ国家洗脳の意味がないわけではないにしろ、多くの親や大人たちは子供に何かを伝えたいという欲求が強いのではないか。どうやったら聞いてくれるかということを考えたら、大変に不謹慎ながら、このパウシュ氏のような方法が何より最適な状況なのではないか。大人たちは可能性として後から生まれた子供たちより先に死ぬだろう。長い目で見ると、ちょっとだけ切実だが、これを理解できる子供は少ない。教えている大人にも、内在的に感じているかもしれないにせよ、表面的には自覚的でない。
 多くの親は、結果的に繰り返し小言をいうか、もしくは黙って背中を見せるということになるのかもしれない。パウシュ氏の親もそうだったように。しかし、このことを理解できたのは、パウシュ氏が大人になったからではないか。子供に伝えたいことが子供に理解できるには、子供も大人にならなければならないのではないか。この本や講演のDVDは、パウシュ氏の死後もおそらく残るだろう。パウシュ氏の子供も子供時代にもそれらを手に取るだろうし、影響は受けるだろう。しかし、理解できるようになるのは、やはり大人になって、子供を持つようになってからかもしれない。もちろんそれでいいと思うが。
 すぐに役に立つような教訓的な方法論的な夢を叶えるやり方も学べるが、それは実はこの本の主題ではないという気もする。もちろんそのために書かれていることは明確なのだが、実はその答えはあんがいありふれている。参考にならないわけではないし、大いに啓蒙される人がいるだろうことはそれなり意義深いが、そういう見方だけではこの本の内容の読み落としになるだろう。
 僕らがいかに生きるべきか。それは人間の命が限りある切実なものであると知るべきなのだということなのだ。いつも二十四時間切実に生きることはできないにせよ(それも疲れるだろうし)、もう少し見直していいところはたくさんあるだろう。なかなかそういう意識になることは難しいとは思うが、このように切実にならざるを得なかった人の姿を見ることで、自分自身の切実さに気付かされるということはあるだろうと思う。特殊な人の特殊な物語なのではなく、そういう普遍的なことを伝えたいというのが、本当の著者の思いなのではないか。それが彼のもうひとつのフェイント(それがなんであるかは読んで確認してみよう)であると、僕は思うのだった。
コメント
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