カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

安価な豊かさ

2008-02-09 | 雑記
 PTAでの話し合いの部屋に入ると、出欠の確認より前に飲物を選んでください、といわれる。テーブルには紅茶にほうじ茶のティーバッグが並んでいる。インスタントの粉コーヒーもある。なんとなくそのコーヒーの瓶を手にとってしまって
「コーヒーはあんまり得意じゃないんだけど…」とつぶやいてしまった。
「それでは」と何故だか砂糖のスティックが添えられたのだが、僕は砂糖入りのブラックコーヒー(砂糖が入っても色は黒なのだからそういうべきだと思う。ミルクを入れるなどして色が変わってはじめてブラックではなくなるはずである)は好きではない。そう言うと、「ま、我がまま」と笑って言われた。好みを主張するのは我がままではないと思ったが、あきらめてコーヒーを飲むことにした。
 暖房設備のない部屋での話し合いなので、主催者が気を使って飲物のサービスを行なっているらしい。みっつ並んでいるポットもすべて自宅から持ってきたもののようだ。確かに話し合いのための予算は、微々たるものであるにせよ、ちゃんと確保されている。それでも明らかに個人的に持ち込みのものの方が多いであろう。なんという気の利いた配慮。テーブルにはティッシュの他、スプーンの束、キャンディ、ティーバッグなど濡れたものを棄てるためのビニール袋、それ以外を棄てるビニール袋、それらを入れて運んできたであろう大き目のバスケットなどが並んでいる。僕はこれらのものを準備することを考えるだけでもめまいがしそうである。
 あるエッセイで、日本の生産性の低さを指摘したものを読んだ。
 米国でハンバーガーを食べようと某大手の店に入ると、長蛇の列がなかなか進まないという。自分の番が回ってきて理解できるが、明らかに店員がやる気がないのだそうだ。注文をとるのも投げやりで、定番のハンバーガーとコーラとポテトを注文したにもかかわらず、何分も品物が揃わない。同じ名前の日本にあるチェーン店なら、恐らく一分もかからないのではないか、という。しかしそういう対応の悪い米国の方が、数字の上では日本よりはるかに生産性の高い国なのである。一人当たりのGDPで比較すると、アメリカを100とすると、日本は70といったところ。この差はいったい何なのか。
 そうしたら、その人の友人の米国人が、それは至極当たり前だという。日本人は午前中に全力で働かないから、午後にも仕事を持ち越して余分に残業して生産性が落ちてしまうのではないか、といわれたそうだ。確かに日本の残業から考えると、残業を当然のこととして仕事をしているという感じはある。平均して三四時間の残業超過で米国の生産性に追いついているということか。
 この話には実は大きな齟齬があって、サービスの生産性と仕事の残業の生産性ということとは大体関係がない。ましてやGDPの一人頭の生産性とも、ストレートに反映されることではないと思われる。そういう訳でこれは勘違いの話に過ぎないのだが、妙に納得させられるからおかしなものである。
 サービスの生産性は、例えばコーヒー一杯を客に提供するのに、米国であろうと日本であろうと、またはインドやアフリカであろうと、恐らく動作としては(時間当たりの生産性)ほとんど差がない。しかし実際には金額ベースでは大きな差があることだろう。賃金の高いところで働くことが、生産性というマクロの生産性に反映されるということだろうか。
 生産性というと、一人頭がどれだけ金額ベースで稼いでいるのか、ということに過ぎない。為替の問題もあるし、そのほかにもいろいろの要素が絡んでいるにせよ、いろんな国の人口で割った一人頭の生産性といっているのである。例えば人口の少ない北欧の国などは、その国を代表する企業の業績が上がると、当然ながらGDPは飛躍的に伸びることにもなる。東京だけを国として分けると、恐らくものすごいGDPになるはずである。日本のように高齢社会だと、実質上労働していない、現段階でまったく生産性に関与してない人まで含んだ上に人口の大変に多い国であることを考える必要がありそうである。
 日本の生産性は、確かに以前はトップだったことを考えると、構造的に問題があることは十分に考えられる。しかし、日本の大企業が本当に国政的にふがいないわけでなく、投資先としての価値が実質反映されないシステムにあるという構造的な政治問題であるように思われてならない。例えば金融などで景気の良い英国のような国のことを思うと、単に取引をしている金額ベースだけが膨らんで、さらに物価も上昇しているのであるから、本当に豊かで羨ましい状況下というのには、大いに疑問を呈さなければならない。統計上に大きな開きが出ているにせよ、実質的な豊かさの差がそこまであるのかという問題と、直接的に実感できないのが当たり前であると思う。
 そのような話とハンバーガーと、ましてや残業の問題は、まったくリンクしないものであるにもかかわらず、日本の国力としての生産性が落ちてしまったことと関連付けられてしまうのは何故だろう。それは働く現場での閉塞感が伴ってのことなのかもしれない。頑張って働いているにもかかわらず、目に見えて成果が上がっているようにも思われない。そうして数値まで突きつけられて、精神的にかなりのショックを受けているということであろう。心の豊かさよりも、やはり先にたつのは金銭的な豊かさであるということは、皮肉ながら言えることかもしれない。
 さてしかし、サービスの質の高さということを考えると、PTAでのささやかな会議の席でも、恐らく非常に高く上質なサービスが当然のように提供されるという土台があって、日本のファーストフードなどで提供される質の高いサービス提供が可能になっているということはいえるのではないかと思う。生産性ということであれば、安いものであれば多くの人に提供できなければ上昇しないし、そうでなければ単価をあげてプレミアムをつけるという方法しか道はなさそうである。しかし、たとえ安いものであっても、上質のサービスが当たり前に提供できる環境にある日本では、当然のようにデフレが起こっているということもいえるだろう。
 日本人の個人あたりの能力としての生産性は、恐らく他国に追従を許さない高レベルであるとはいえると思う。ことサービスにおいては。しかし、この異常なレベルの高さは、日本という局地的な価値でしかないところに、金額として反映されないという答えが隠されているのであろうと思う。
 工業製品というものは、使う分には言語というものは特に重要ではない。だから今までは日本という国は世界のトップで走ることが出来た。しかしコンピュータをはじめとするプログラムに使われる技術を動かすテクノロジーは、英語という言語が席巻してしまった。日本の生産性が落ちているという裏には、そういう事情もあるとは考えられる。そうであれば、既に勝負は決していて日本は今後もこの分野では成長は難しいだろう。この話は脱線するので、また別に考える必要はあるが、そういう特殊能力だけが一部の国を引っ張るということは、垣根を越えた次世代の頃には、また別の問題になっていくような気がしないではない。また僕は預言者ではないので、差し控えておこう。
 さて、そうではあってもサービスの質と生産性は、国内においては関係がある。国際比較で劣っているように見えるサービス産業の生産性の低さだが、安くても非常にクオリティの高いサービスを提供しない限り、国内では伸びていかない。GDPを飛躍的に伸ばす可能性のある分野ではないにしろ、このような日本の特殊性は大変に貴重な価値であると思う。
 事実、僕は学校の暖房設備のない貧しい寒々とした夜の教室の中にいて、あまり好きではないにしろ、暖かいコーヒーをすすって暖を取り、心豊かに会議に参加できた。
 そう、本当に豊かな国というのは、このような暖かい気持ちを当たり前に享受できる環境にあるのである。たとえ金額的に開きがあるように見えても、日本の実質的に快適な豊かさは、そう簡単に追従を許さない水準に達しているのである。むやみに自信過剰になる必要まではないと思うが、またむやみに悲観にくれて勘違いな意見に惑わさてしまわないようにしたいものである。
コメント
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