「集団主義」という錯覚/高野陽太郎著(新曜社)
副題「日本人論の思い違いとその由来」。日本人が集団主義的だというのは、いわば常識化している言説である。僕はそうではないと知っていながら(これまでもその説は怪しいというのは聞き及んでいたので、完全には洗脳されていないと思っていた)、これを読むまでは、本当には知らなかったことを知った。日本人が集団主義でないことを、これでもかというほど実証している訳だが、それでも集団主義だという思い込みは、海外からも日本人からも抜けてはいない。その謎がどうしてなのかも証明してある。証明しているが、それでも呪縛から抜けることが、簡単でないことも解説してある。それほど根深い問題が、間違いなのに完全に流布している。それが日本社会であり、西洋人の思い込みだ。何でもステレオタイプに理解すると話が早い。そうであると認める方が、お互い分かり合えると誤解できる。それほど思い込みというのは厄介なものだ。それを思い知ることは、人間として生きていくためには必要なことのように思える。必要なことなのに、それを備えていない人間の方が多数である。それを絶望するか、はたまた喜ぶべきか、読んで確かめてみるべきだろう。
実を言うと、そのような洗脳から逃れられない日本人論を、喜んで納得して読んできた個人の歴史もある。ブログを見返してみると、昨年も日本人の働き方を論じた西洋人の本を読んでいた。その内容をそれなりに正確に理解したうえで、今思い返してみると、その実証的な調査に基づいて論じてある論旨は、ある程度間違いであることにも今気づかされた。彼女らの考えのもとに間違ったバイアスの認識があるので、日本人を誤解していただけだったのだ。ちゃんとした学者の研究なのにこれだから、日本人論は難しいのである。おそらくちょっとした正確さをもって日本人を見ている外国人は、コンマ1%も居ないことだろう。
もっとも同時に、例えばアメリカ人が日本人に比べて個人主義的か、という問題がある訳だ。正しい答えとしては、ちゃんと実証すると、日本人とアメリカ人は、同じ程度には個人主義的ではある。むしろ日本人の方が少し個人主義的なのだが、誤差の範囲かもしれない。今のアメリカの大統領選前の雰囲気を見ても分かる通り、アメリカ人というのは、非常に集団主義的な人種でもある。様々な人種が混ざり合い、アメリカとして団結するためには、個人主義だという価値観を持ちながら、集団主義的に物事を把握していかなければならないようだ。個人主義的な日本人の目から見ると、かなり奇異なる光景なのだが、そのことに気づかないほどに熱中して集団主義を邁進しているのである。そうして彼らは、個人の自由を犠牲にして自分たちを保護し、ひどく差別的な政策を自己正当化していくのである。彼らに個人主義的な価値観が少しでも残っているのなら、そんなことにはなり得ないのである。
それでも日本人は、これからも集団主義的であると信仰してはばからないだろう。ほとんど馬鹿みたいだが、それが洗脳というものである。もっと自由に生きていきたいなら、迷わず読むべき必読書であろう。