カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

流行歌の歌詞の評価について

2024-07-03 | ことば

 若い頃に荒井由実(松任谷)の歌を聴いていて、なんてすばらしい歌詞を書く人なんだろうと感動した覚えがあるが、考えてみると、その詩だけをそらんじて鑑賞することは無かった。世の中にはそれらの歌になっている詩を、もう少し評価してもいいのではないか、ということを言っている人もいるという。中島みゆきの詩などは、そのような評価に値するという研究なんかもあるらしい。
 そういえば知り合いの人に、家族で井上陽水を崇めているところがあって、一緒に飲むと陽水の話になって、しきりに褒めてばかりいるので閉口する。しかしながら陽水の詩というのは、変なところも多いが、確かに詩として素晴らしいような気もする。彼のキャラクターがなんとなく変な人なので、うまく評価されていないのではないか。いや、そういうファンがいるのだから、評価されているのかもしれないが……。
 考えてみるとボブ・ディランなんかはノーベル文学賞をとったので、海外では歌の歌詞であっても、それなりに評価する機運のようなものがあるのかもしれない。あちらの文学なんかでは、いわゆる韻をふむというのがいいらしく、そういうのはラップなんかでも伝統を守っているのだ、というのは聞いたことがある。日本語だとなんだとなく駄洒落っぽくて、そういうのは文学的には評価が低そうだが、西洋とか中国なんかだと、歌詞に韻を踏んでいるものは多いようだ。そういう面白さと単語の豊かな広がりのようなものを、感心する文化があるのだろう。日本語だと文字数で、俳句や短歌などの文学分野がある訳だが、韻を踏んだ詩の評価が高いとは、あまり感じられない。日本の歌にも、韻を踏んだようなもの(桑田佳祐だとか)はあるようだけど、詩の評価の高さにつながっているものだろうか。
 確かに日本の場合だと、歌われているメロディが無いと、その詩自体が良いとされるものは、あまりないように感じる。歌にされていない詩の方が、一段と文学的に上にあるように、扱われているのではないか。童謡にはいい詩があるというのは昔聞いたが、現代の流行歌の詩が評価されているようには聞かない。いや、僕が知らないだけだろうか。個人的には泉谷しげるの詩は、かっこいいと思うが、再評価されないものだろうか。
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