SNS依存症というのがあるのは、前々から問題にはなっていた。ちょっとした日常の出来事をUPしているということなのだが、そのちょっとした自慢めいたものの方が、そうでないものより多くなる。美味しいものを食べた(以前はこれがほとんどだった)というのを写真付きでつぶやくのが典型で、美しい風景だとか、珍しい出来事とか。写真の上手下手もあるかもしれないが、補正する技術もあるらしく、それらしく加工して素晴らしい、というのもあったのかもしれない。
一方でこれを、いわゆる「リア充」自慢として妬む人のコメントも結構あったりする。直接うざいとか書き込む人なんかもいる。それなりにひねくれているわけだが、つらいものはつらいのかもしれない。まあ、見なければいいというだけの気もするが、利用する人にはいろいろ事情があるのだろう。むしろひどく毒を吐いている人のを見ることもあって、見せられる方はその方がつらい。そういう人はおそらくそれには気が回らないようで、慰めて欲しいのかどうかは分からないが、ひどく甘えているようにも感じる。それにちゃんとフォローする仲間が居られることは救いだが、それすらないと、ちょっと警戒感が漂う。そういうこともあって、リア充の報告がたくさんある世界の方が、どちらかというとふつうに健全そうに感じるのだが、まあ、それもバランスかもしれない。
そういう風に思っていたのだが、しかしこの皆から「いいね」をもらう事での満足ということには、少なからぬ危険が潜んでいるそうだ。「いいね」というのはいわゆる評価であって、それの多寡によって自己の承認欲求を満たすことに問題があるらしい。
何が言いたいかというと、そういう承認欲求に満たされなければならないということに、自分が振り回されてしまう、ということらしい。そういう欲求を満たすために、いつもいいものを食べ、美しい場所を訪れ、きれいに着飾って、そうしてメイクなんかにも凝っていく。すべては他人から、「いいね」をもらうためだけのために。
そういうのを「幸福至上主義」というらしく、そのような考え方が、実は自分の幸福度を下げる結果に陥らせるらしい。皮肉めいているのだが、何故なら自分の幸福は、他人の評価次第だからだ。自分がいいと思われたいところを、他人の「いいね」にゆだねてしまっているのが、問題なのだ。しかしそれが、SNSの本質でもあるわけだが……。
なかなかに難しいものだな、とも思うのだが、はて、しかし僕自身も長年ブログを書き、SMSにあげてはいるわけだ。
確かに「いいね」がたくさんつくと、「おお」っという嬉しさがあったのはあった。正直言って今もあるかもしれない。そうなんだけど、やはり僕はそういうのとは、実はちょっと違うところがそもそもあるのだ。
経過からするとすでにブログ自体は十数年(※後で考えると20年近くでした。少なくとも17年以上にはなるようだ)にはなっていて、フェイスブックが始まってすぐに連動しだしたと思う。最初は十数個すぐに「いいね」がついたりして、いい気分はあったかもしれない。しかし僕のブログはそもそも長いし、読んでくれている人は実際には数人だろう。一時期フォローするカウント数も250を越えたりして、さらにいい気分だったが、しかしその後は下がり続け、もう何年も100ちょっとというのが続いているかもしれない。まあ、これも慣れと言いますか、書いていることはそれなりに変化しているものと僕自身は思うのだが、つまるところ考え方がそう変わるわけではないので、ずっと読んでくれている人がいるというよりも、ちょっとずつくらい変化もありながら変遷があるのだろうな、ということに過ぎないと思われる。気にしてない訳では無いが、基本は備忘録と、自分の考え方のまとめなので、書かざるを得ない事情が僕なりにあって書いているものを、たまたまこういうかたちで上げているということなのだ。
それはあまり理解されづらいことではあるようで、つまるところ評価されるのを求めてというよりも、他人の目がある前提でものを書くという自分なりの訓練のようなものであって、そういう中で物事を考えていくことが、自分にとってはそれなりに必要な手段ではないのか、という実感があるためなのである。
多少無理やりに自分に納得させている面があるにはあるが、たぶんそんなような感じで間違いなさそうだ。もちろん突然やめてしまうかもしれないが、文章を書くというのはちょっとした快感もあるので、そういう意味では依存症ではあるかもしれない。自分なりに書いて、書き直したりする作業に没頭すると、それ自体が楽しいのである。もちろん楽しくない時も、あるのだけれど……。
という感じで自分の考えを表に出そうとすると、字数が増えていく。単にそれだけのことなのであって、これって幸せ至上主義にあてはまることなのだろうか。