エリック・ドルフィーの「イン・ヨーロッパ VOL.1」(Prestige)。
1961年、コペンハーゲンでの演奏である。
収録曲のひとつ「ハイ・フライ」では、ドルフィーはフルートを奏し、それは“知性的である”と誰かが評価していた。
この曲の演奏は、ドルフィーとベースのチャック・イスラエルの二人。
13分を超える演奏で、ドルフィーのフルートが存分に堪能できる。
終始鳴り続ける弦の響きもゆっくり聞くことが出来る。
和泉式部の和歌について感じていることを記しておこうかと思った。
もとより、わたしに和歌に関する素養があるわけでなく、古文の知識があるわけでもなく、あくまで素人の感想でしかないだろうが。
ただ、和泉式部には惹かれるものがあり、岩波文庫の「和泉式部和歌集」を持ち歩いて、通勤の電車の中で開いていたこともあった。
まとまった関連書籍では、馬場あき子著の「和泉式部(河出書房新社、1990年)」、沓掛良彦著の「和泉式部幻想(岩波書店 2009年)」を読んだことがある。
どこまで読み込めたかかは別に、両著とも、詩情への理解深く、ハイレベルなものとの印象をもった。
今回、笠間書院の“コレクション日本歌人選”の一冊、高木和子著「和泉式部」を読んだ。
50の和歌をピックアップし、一首見開き2ページで解説したものである。
私にとっては、和泉式部の和歌を理解するうえで、とても参考になった。
かねてより、和泉式部の和歌は、その意味・詩情を理解しにくいものが多いと感じていた。
単体で素晴らしいと感じるものが少なかったのである。
詞書きが付いていても、それだけでも分かりにくかった。
その和歌がつくられた周辺事情を知ることなしでは、意味がとりにくいこと、贈答歌が多く、お互いにどのような言葉を使ったか、そこらを知ると、理解が深まること、高木著を読んで、いくらか分かるようになった。
言葉の選択の妙、リズムのこと、詩情の地平を広げたことも説明されていて、なるほどと思った。
そして、いくらか理解が出来るようになると、改めて、和泉式部の詩人としての凄さを感じた。どれもこれも激烈である。
容易にまねの出来ないオリジナリティを感じた。
例えば、帥宮挽歌群の次の一首。
うちかへし思へば悲し煙にもたち後れたる天の羽衣
「うちかへし思へば悲し」で切れており、その意味は、“あらためて思うと悲しい”となる。
「煙」は、愛した人の荼毘の煙であり、“死”を意味する。
よって、「煙にもたち後れたる」は、“愛した人は死に、遺体は燃やされ煙となってしまった。わたしはとは言えば、ともに死ぬことなく、遅れをとってしまった”となる。
「天の羽衣」、この「天」は、「尼」でもあり、自分のことであることをにおわせ、煙とともに天に昇る羽衣もない、“死の世界へ昇ることができず、ただ取り残されている”そのような意味となる。
そこには、死をものぞむ、激しい愛のさまがある。悲鳴をあげている女がいる。
和泉式部の色恋は、そんな激しさをともなう。
満たされないときのもの思いも、魂の深淵をのぞくものとなる。
確か、藤原道長は、和泉式部のことを「うかれ女」と呼んだ。
現実の和泉式部は、外から見れば、そう言われても仕方ないところがあったのだろう。
ただ、彼女の心のうちには、内へ、底へと向かう情動が常にあったのだと思う。
それに、贈答歌の妙を思うと、人の心情への理解と、そこに相手の魂を突き刺さんばかりの剣が秘められていたことを感じる。
さて、そんな和泉式部であるが、同時代を交流しながら過ごした紫式部はどう見ていたのか。
この二人には、詩人と小説家の違いのようなものを感じてしまうが。
《紫式部日記に記された和泉式部評》※以下は、このブログ記事の再掲。
【原文】
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほいも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと、ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみそへ侍り。
【私訳1】※いささか勝手に
和泉式部という方は、男性ととてもすてきな歌のやりとりをしました。それはいいのですが、男性にちやほやされていなと気がすまないようなところがあって、しかも、すぐさまからだの関係もできてしまう困ったところがありました。何か節度が欠けているのです。さりげなく、さらっと風雅な歌を詠む才がありました。そのなかにきらりと光るものがあるのです。ところが、歌論的な素養がなくて、本格的な歌人とは言い難い方でした。
【私訳】※なるべく原文に近く
和泉式部というひとは、すてきに歌を交わしました。ですが、けしからぬところがありました。さりげなく、さらっと文を書くと、才がきわだち、その言葉に香りたかさがありました。歌は風雅でしたが、歌の知識や理論には足りないものがあって、まことの歌人とは言えません。思いつくままの即興にも、必ずすばらしいところがあって、目を引くものが含まれています。