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辞世じゃないね

2017-07-12 | 読書
【本の紹介】
●戦国武将の辞世/加藤廣著/朝日新書/2017年5月30日発行/760円
タイトルと中味がいささか違う。戦国時代の武将たちを中心に、辞世であったり、生前に語った言葉のアンソロジーである。例えば、蓮如が生前に語った言葉や毛利元就の「三本の矢」の話。
 それぞれの武士他の人物評価、その言葉の背景等が記されているが、なんだかスカッとしたところがない。著者にある何らかの屈託のせいだと思う。
 宮本武蔵では、「我ことにおいて後悔せず」がとりあげられている。一聞、いさぎよさをあらわすかのような言葉であるが、著者は次のように指摘。
 「考えようによっては女々しい」として、「逆説的に捉えれば、その心中では、いつも、自分の人生は失敗ではないかと疑っていたのではないか」と。これには、納得した。そして、先日、友人達が、某氏を偲んで刊行した本の表紙に、「我ことにおいて後悔せず」の言葉が印刷されていたのを思い出した。某氏の好きな言葉だったのだろう。某氏の生き方のことが気になった。
 以下、本の中にある歌で、いいなと思ったもの。
 豊臣秀吉:露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢
 佐々成政:かく計り 替り果てたる 世の中に 知らでや雪の 白く降るらん
 黒田長政:此の程は 浮き世の旅に 迷い来て 今こそかへれ 安楽の空
 武蔵坊弁慶:六道の 道のちまたに 待てよ君 後れ先立つ 習ひありとも
 大谷吉継:契りあらば 六つの衢に 待てしばし おくれ先立つ たがひありとも
 細川ガラシャ:散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なり 人も人なり
 浅野内匠頭:風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん

「アニマル・スピリッツ」

2017-06-22 | 読書
【本の紹介】
●人口と日本経済/吉川洋著/中公新書/2016年8月25日発行/760円
 著者は、人口の変化による経済への影響に関する定説や思い込みを検証し、正していこうとしている。
 日本の将来について、人口の減少が経済の縮小をもたらすとの懸念があるが、そうではないとデータをもって示している。明治以降の日本経済を見ると、経済成長と人口はほとんど関係ないと。
 そして、経済成長をもたらすのは、イノベーションであると説く。労働生産性の上昇をもたらすのは、「資本蓄積」や広い意味の「技術進歩」、産業構造の変化であると。その中では、高齢社会における社会保障、出生率の低下や長寿の影響等についても語られる。
 成長の源泉たるイノベーションについては、高い需要の成長を享受する新しいモノやサービスを生み出すことであると言う。 需要の飽和による停滞を起こさせないためには、それが肝要であると。
 本書を読みながら、気になっていたのは、著者は、イノベーションを起こす元となるものについて、どうとらえているのかと言うことだった。結局、やるかやらないかは、人にかかっているのである。つまり、新しいモノやサービスを生み出そうとする人の動機や意欲は何によるのかと。
 最終章の終わりあたりに、「問題は、日本の企業が潜在的な需要に応えるようなプロダクト・イノベーションを成しうるか、である」とあった。まさに、そこにかかるのである。
 本書末尾にいたって、シュンペーターやケインズの言ったことが記されている。「何よりも未来に向けた自らのビジョンの実現こそが本質的」、「最終的には『アニマル・スピリッツ』と。「健全なオプティミズムが失われ合理的な計算のみに頼るなら企業は衰退する」と。経済学者も、とどのつまりは、人間性に着目するのかと思った。
 要するに生命体として元気で、未来への希望・意欲を燃やし続けることが大事ということか。ある意味で、世俗的な競争心をもち、他より優位でありたい、社会的な評価も得たいという、一歩間違えば、あまりに世知辛い道でもあると心得ておくべきかと思った。
●余談
 そういうことで、本書に老子や儒教の教えのことも出てくるのも、そうかと思わせる。著者は老子の考えは、社会活力を生み出さないと言うようなことで評価していない。確かに、そうなのだ。ただ、経済の場面で、老子を持ち出すのはどうかとも思う。わたしは、老子は、人の心の平静を得る道を求めた。「足ることを知る」ことも大切で、それがなければ、単なる餓鬼とも言える。
 一方、儒教の方は、その道徳は、世間一般的なものでしかない、もっともらしく生きるというレベルでしかないとも言えないか。しかし、実際の社会は、それが主流でなんとか成り立っていると言うのが現実でないか。みんなが納得し易いラインで行こうというものでないか。
 経済成長と人の幸福の話は、本質的には別次元と思う。
 ザッと読んで、ポイントだけ備忘にと思ったが、書きすぎた。
 イノベーションには、純粋な知の探究という側面もある。持っていたい人のひとつの性向だ。

ジャズ・遺伝子

2017-05-24 | 読書
【本の紹介】
●ジャズの証言/山下洋輔・相倉久人/新潮新書/2017年5月20日発行/820円(税込み)
 本書は、山下洋輔、相倉久人の二人の対談をまとめたものである。相倉氏は2015年7月に亡くなっており、対談が行われたのは、それ以前ということになる。未発表であったものが、出版にいたったということである。
 両氏のイメージからすると、過激な発言の応酬を期待するむきも多いかと思うが、本書の内容は、いたってまともで、穏やかなものである。ジャズを愛する二人が、その本質を考究したところを語り合っている。また、時代背景からして、激しい世相の動きの中で表面に現れたものと別に、ベーシックなものの大切さに言及している。音楽理論に触れた部分は、わたしには、よく分からなかった。
 いずれにしろ、どちらかというと、たんたんと音楽、ジャズについて話し合われているが、なんだか飽きさせない。二人は、わたしより一世代前の方であるが、わたしの世代に共通するジャズメンやクラブのこと等もでてきて、身近さを感じさせるのが、その理由であろうか。
 60年安保から70年安保の騒動、新宿のピットイン、唐十郎の赤テント・・・・。
 改めて、自分はジャズをどうとらえているのかと考えた。基本的なことだが、クラシックを聴くときは、その作品を第一に気にする。演奏者や指揮者による選択もあるが、ほぼ、作品優先である。
 一方、ジャズは、決定的にプレイヤーを気にして、それで聴くかどうかを決める。アイラー、ロリンズ、ドルフィー、モンク、ミンガス・・・・要するに、演奏者の個性を感じたくて聴くのである。本書に出てくる言葉を使えば、プレーヤーの「遺伝子」に接したくてということか。
 演奏に関して、聴くと同時に、演奏者の動きを見ることが重要とあった。もっと見ればよかったな。

一夜の枕から

2017-05-17 | 読書
 「御伽草子」の「さいき」を読んだ。
 豊前に住む佐伯と言う男が二人の女性に捨てられる話。
 女性の一人は、京の美女で、男は京にのぼった折に、みそめて「かやうの人と一夜の枕をならぶるよしもがな」と思う。声をかけ、「いい仲」となり、女性も男を好きになる。
 その後、男は、豊前に帰ることになる。別れがたき思いがつのった女性に、「御迎ひに上せ候べし」と応じる。
 故郷に帰った男は、迎えを出さず、その女性をほったらかしにする。
 国の女房は、京の女性の思いを知って、とんでもない不得心の夫と、京の女性を招くことにする。
 国の女房は、「かほど不得心なる男を頼みしわれこそあさましけれ」と髪剃り落とし出家する。京の女性の思いに心を寄せ、不誠実な夫を嫌い、切り捨てる。女同士のトラブルに発展することがないのが、この話のひとつの特色か。
 京から豊前に来た女性は、この経緯を知り、国の女房に心を添わせ、「かやうにやさしき人を、いかでか一人置くべきぞ」と髪を切る。そして、同じ庵に入る。男は、二人の女性に愛想を尽かされる。
 やがて、男も出家。清水の観音の御方便で、三人とも救われるという顛末。
 京の女は、どうして、そんな男に思いを寄せることになったのか。見きわめられなかったのか。
 国の女は、どうして、京の女に嫉妬し、嫌いにならなかったのか。
 なんだか、「どうして」と思わせる話である。

謀りごとと濫妨で

2017-05-12 | 読書
 「御伽草子」の「一寸法師」を読んだ。
 津の国、難波の里の話。
 「おほぢ」と「うば」がおり、「うば」が四十一の時に、「ただならず」なり、すなわち、妊娠して、「いつくしき男子」が生まれる。一寸法師である。
 大喜びするも、時経ても、背が高くならない。化け物と言え、いかなる罪の報いかと思うようになる。
 一寸法師は、そんな親の思いに気づき、親元を離れ、都にのぼることにする。針の刀を持ち、御器の舟で。
 都で、三条の宰相殿と言う人のもとに行く。そこで、一寸法師は、十六となるが、背はもとのまま。
 そこに、十三になる姫君がいる。一寸法師は、自分の女房にしたいと思う。そこで、謀りごとをする。「みつもののうちまき」(貢ぎもの・捧げものの米?)が、姫にかすめられ、食べられたと仕組む。宰相殿は怒り、姫を放擲。その役を一寸法師が担う。
 その後、二人は、都落ち。そして、ある島で、鬼二人に出会う。鬼の一人が「打出の小槌」をもっていた。
 あとは、鬼退治。取り上げた打出の小槌を打ち、背を高くし、食料、金銀を得る次第。姫と連れだって都にもどり、めでたしめでたしとなる。
 一寸法師は、なかなか曲者だったと言えるのか。

鶴になった浦島太郎

2017-04-28 | 読書
 御伽草子に収められている「浦島太郎」を読んだ。
 一般的な昔話とは、おもむきを異にしている。その筋を追ってみる。
 丹後国の浦島さんの子に太郎がいて、海に出ての漁で生業をたてていた。礒で亀を釣り上げたが、「ここにて命をたたん事、いたはし」と思って、海へかえした。
 次の日、太郎が漁に出ると、海上に小船が浮かんでおり、美しき女性が乗っていた。事情を聞くと、荒波にあって、そういうことになったとのことである。そして、本国に連れて行ってくれないかと頼まれ、十日ばかりの船路で、彼女の故郷に着いた。その地の住居は、金銀をちりばめた立派なものだった。
 彼女は、こういうことになったのは、「皆これ他生の縁」と夫婦になって一緒に暮らそうと求め、太郎は応じる。なかなか積極的とも言える女性である。
 彼女は、太郎に、「これは竜宮城と申す所」と、春夏秋冬の美しき景色を見せた。楽しく三年が過ぎた。そこで、太郎は、父母のことが心配なので、三十日の暇をくれないかと申し出る。
 彼女は、今、別れるといつまた逢えるかわからない、「たとひ此世にてこそ夢幻の契にてさぶらふとも、必ず来世にては、一つ蓮の縁と生れさせおはしませ」と、泣く。そして、わたしは礒で命を助けられた亀であると打ち明ける。
 結局、太郎は、かたみにと「いつくしき箱」を渡されて、故郷に帰ることになる。「あひかまへてこの箱をあけさせ給ふな」と言われた箱である。
 故郷に帰り着くと、かつてと様子が違い、人に尋ねると、ここに浦島という人が住んでいたのは、七百年以前のことであると聞かされる。父母はとっくの昔に塚のなかだったのだ。
 呆然とした太郎は、一本の松の木陰で、箱を開けた。紫の雲が三筋のぼった。二十四五だった太郎は、たちまち齢を重ね、鶴になって、虚空に飛び去った。
 亀が、箱に収めていたのは、「時」だったのだ。太郎の齢を畳み入れていたのだった。
 その後、浦島太郎は、明神と顕れ、亀も同じく神とあらわれ、夫婦の明神となる。
 人と亀との結婚、生き物を助けた功徳ゆえの神への「昇格」、海の彼方の楽園(竜宮城)、鶴への変身、年齢を箱の中に封じ込めると言うこと・・・・・そんな話だった。

ラスト・マタギ

2017-04-27 | 読書
【本の紹介】
●山人として生きる/志田忠儀著/角川文庫/平成29年3月25日発行/¥600
 表紙にサブタイトル風に「8歳で山に入り、100歳で天命を全うした伝説の猟師の知恵」とある。山形県に生まれ、朝日連峰、寒河江川地域で暮らした一人の男が記した一書。熊や兎狩り、茸採り、岩魚釣り等の経験が語られ、自然の中で生き、身につけた事々が綴られる。熊や兎の習性を知ることが、捕獲することにつながる。当たり前のことかも知れないが、それらを明確に意識化して示されている。
 また、戦争で中国を転戦した経験、遭難救助、国立公園の管理の仕事のことが語られ、その肩肘はらぬ姿勢に、氏の人柄が感じられる。
 本書は、平成26年に「ラスト・マタギ 志田忠儀・98歳の生活と意見」として発行された単行本の文庫化で、読みやすく、惹きつけるものにあふれている。

浮世は芝居小屋

2017-02-14 | 読書
 沓掛良彦訳「ギリシア詞華集第10巻」を読んでいる。
 勧告詩・教訓詩などを収めた小さな巻である。
 パルラダスの次のような詩が、気をひく。
  浮世はのう、所詮あそびか芝居小屋、くすむ心をさらりと捨ててかぶきたまえや。
  それは御免と言いやらならば、忍びたまえや世の憂さを。

ギリシア詞華集

2017-02-06 | 読書
先輩に、「ほん代」なるものを貰った。
それで、いささか高価でためらっていた本を買った。
「西洋古典叢書 ギリシア詞華集3」である。
訳は、沓掛良彦。
発行は、京都大学学術出版会。
酒をめでる詩などを読みたかった。
ひとつひとつが短く、自分がおかれた状況にかなっていた。
以下は、パルラダスの詩のひとつ。
 世に在る人は誰とても、ついには死ぬるがその運命。
 死すべき身として生まれ、明日という日に己が生きてあるかを知る者なし。
 さればおい、人間よ、これおばとくと心得て、大いに陽気にやるがいい、
 存分に酒喰らい、死なんぞは忘れてな。
 こんなはかない生を生きるのだから、アプロディテの愉しみを尽くすがよい、
 そのほかのことは何もかも、運命女神の手にゆだねてしまうのさ。

プロメテウスの苦しみ

2017-02-06 | 読書
プロメテウスは、神の国から火を盗み、人間に与えた。
ゼウスは怒り、プロメテウスを山の岩に鎖で縛りつけた。
鷲が飛来し、プロメテウスの腹を裂き、肝臓を喰った。
肝臓は、夜のうちに再生した。それで、
プロメテウスは、来る日も来る日も、苦しんだ。
以上は、ギリシア神話。
子どもの頃、プロメテウスの腹を突く鷲の絵を見た。
肝臓のことを書いておきたかった。

「ミケランジェロ」

2016-08-15 | 読書
●ミケランジェロ/田中英道著/講談社学術文庫/1991年4月10日発行/800円
 以前、「若き日のミケランジェロ」と題されて発行されたもので、その存在は知っていて、いつか読もうと思っていた。たまたま、その文庫化された本書を古本市でみつけた。
 著者の田中氏には、友人とやっている勉強会に講師として招き、話を聞いたことがある。その時は、昭和の政治史にからむ話だったと記憶している。その後、氏の「日本美術全史」をとてもおもしろく読んだ。このブログで、その紹介をしたことがある。
 さて、今回の「ミケランジェロ」であるが、これもとてもおもしろかった。いわゆる伝記物ではなく、その作品に秘められたミケランジェロの精神に肉薄しようとするもので、稀代の天才の胸にあったものの幾ばくかを知ることができたように思う。当然、ミケランジェロの生きた時代の思潮状況や、同時代に生きたレオナルド・ダ・ヴィンチのことなどが、その背景にある。とは言うものの、焦点は人間ミケランジェロ個人の精神である。その中味については、再読でもした折に述べてみたい。
 わたしは、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品より、ミケランジェロの作品の方に魅かれる。きっとそれは、作品ににじみだす精神性により共感を得るものがあるからでないかと思う。本棚にあつた画集を改めて開く契機ともなった。

澄み渡る

2016-07-09 | 読書
 謡曲「養老」を読んだ
 「風も静かに楢の葉の、鳴らさぬ枝ぞのどけき・・・」とはじまって、「よき御代なれや、萬歳の道に帰りなん」と終わる。
 養老の瀧の故事をもとに作られた一曲。まがまがしいところはなく、すっきりした作品である。
 「御山の松陰に、楢澄む水かな」
 「げに、潔き山の井の、そこ澄み渡るさざれ石の、巌となりて苔のむす、千代に八千代にのためしまでも・・・・」
 「天より光かがやきて、瀧の響も聲すみて・・・」
 「水滔々として浪悠々たり・・・」

鬼女山姥

2016-07-07 | 読書
 幽玄の作と言われる謡曲「山姥」。
 隠れなき遊女たる百魔山姥の曲舞が基になっての作。
 山姥は、「なうなう旅人お宿参らせうなう。・・・・わらはが宿にて一夜を明させ給ひ候へ」と現れる。
 その容貌は、「髪にはおどろの雪を戴き、眼の光は星のごとし。面の色は、沙丹塗の、軒の瓦の鬼の形・・・・」
 その暮らしは、「生所も知らず宿もなし。ただ雲水を便にて、いたらぬ山の奥もなし」
「松風ともに吹く笛の、聲すみわたる谷川に、・・・月に聲すむ深山かな」
 「春は梢に咲くかと待ちし、花を尋ねて山めぐり」
 「秋はさやけき影を尋ねて、月見る方にと山めぐり」
 「冬はさえ行く時雨の雲の、雪を誘いて山めぐり」
 そして、「廻り廻りて、輪廻を離れぬ、妄執の雲の、塵つもって山姥となれる」
「山また山に山廻りして、行方も知らずなりにけり」 と終曲。
 山姥は、夏はどうして過ごしているのだろうか。
 深山幽谷に涼んでいるのか、緑濃き木陰に。

夢に来たりて

2016-07-04 | 読書
 この前、謡曲「半蔀」を読んだ。それで、同じく源氏物語の夕顔の上の霊が登場する「夕顔」を手に取った。
 物の怪により落命した夕顔の上の亡霊が、旅の僧に回向されるという曲である。
 「ここは何処」とこだわる旅僧に、夕顔の上は、「紫式部が筆」による「かりそめの言の葉」のこと「むつかしげなる旅人」だことと対する。そして、「某の院」とされる場所は、六条河原の院と思っていいよと。
 「散りはてし夕顔の、花は再び咲かめやと、夢に来りて申すとて・・・・」
 「跡よく弔ひ給へ・・・・」   
 「御僧の弔ひ受けて・・・」
 最後は、「夕顔の笑の眉」、「雲の紛れに失せにけり」となる。
 夕顔の花は夏に咲く。
 同じく、夏の花、百日紅の花が咲き始めている。

「修羅の道」

2016-07-03 | 読書
 知人が、仕舞で、「實盛」のキリ、舞い謡うというので観にいった。
 行く前に、「實盛」のキリというのは、どの部分からかと読んだが、分からなかった。
 「其執心の修羅の道・・・・・・」
 知人というのは、女性で、華奢なひと。
 能舞台がつとまるのだろうかと思わせられる。
 練習を重ねれば、舞い謡うことができるようになるものか。
 少なくとも、俺には、出来ない。
 凄いなあと思った。
 小さい頃、實盛の首が洗われたという池に行ったことがある。
 それでか、謡曲に接しだしたはじめにあったのが、「實盛」。