銚子・角巳之・三代目

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下がるほど...①

2024年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

さて今年も行って(見て)きました、妙見様の藤の花...。下がるほど・人は見上げる・藤の花。
数年前のコロナ禍にて、面白味のない毎日ですがこういう時だからこそ出来ることは何ですかね?
となりまして地域の仲間から出てきた答え、”足元をもっと深く掘る”・なるほど!となりまして...。

あれからもう4年ほどになりますか、事務所(銚子駅近く)の周辺を歩け・歩けから始まって
市内を流れる小さな川(運河や水路のようなもの)の源流、流れ行くその先を探したり...。
笑われるかもしれませんが、当時の“世相”どうだったでしょうか?緊急事態宣言のあたりです。

何事も喉元過ぎれば熱さを忘れる。確かに忘れてしまうのも一興で、恐らく多くのことは忘れて
しまうのですが、逆説的にまだ忘れていない習慣等は、大切にしていきたく思っております。
GW前後には妙見様に行って臥竜の藤を見る。藤の花だけでなくあの空間に浸る...。

いつもそこにあると思っていた(こと、もの、場所、人)...。これはどうも幻想のようですね。
先般掲載、水戸藩に因んで(黄門様は)花は散るもの、人は死ぬもの、この世は夢であるので、
ただ狂え...と。(続きは次回に)さてさて、明日から5月です。


側高(そばだか)神社

2024年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

銚子から国道356号線(利根川沿いに)香取(佐原)方面に進んでいる時、こんなところに
神社があるんだ...と気になっていた場所があります。それが本日掲載の側高(そばだか)神社。
国道沿いに看板はありますが、どうやって入れば良いのか?等々、分からないことだらけ...。

こういうのが、タイミングというのでしょう。今回何故か、“入ってみたい”衝動に駆られ、意を
決して入ってみました...。いきなり国土浄化の祖神と。階段を上がり境内に入りましたが...。
非常に強い“圧”を感じた次第です。話が逸れるので感想のみに致しますが、圧が強い...。

縁起等を見ると、香取神宮の第一摂社であると書いてありました。摂社とはある神社の境内や
近隣にある小規模な神社を指しているようです。確かに所在地は香取神宮の近くでありますが、
この側高神社、古来より祭神は深秘とされているようです。この深秘(じんぴ)ということ...。

まさにこの言葉に象徴されるよう、側高神社、深秘に満ちております。深秘...、辞書を引きますと
深い道理や秘密。奥が深くて簡単に知ることが出来ない等とあります。弘法大師・空海に関する
記述も見られました...。深秘...、境内に入った時に感じた“圧”の強さと無関係ではなさそうです...。


桜田門外...⑤

2024年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

本日の写真、先般の東国三社・未掲載分を...。鹿島に戻って鹿さん(アントラーズの由来)、
さざれ石、要石...。すべて“いわれ”“由緒”あるもので、これらをまとめて掲載すること、畏れ
多いことではありますが、何卒ご容赦を。さて桜田門外の(一応の)まとめを...。

主を殺された彦根藩...。まず井伊直弼の周辺を警護していた者たち(主を守れなかった者)。
討ち死にはお咎めなし。重傷は流罪。軽傷は切腹。無傷は斬首...という苛烈な対応であった
ようです。今度は水戸許すまじ...、報復の連鎖であります...。

譜代(しかも大老)と御三家、幕府を支える屋台骨どうしが復讐の連鎖...。時の将軍は彦根藩
に対して、忍び難きを忍んで欲しい...と自重を促す。このままでは日本国内に内乱が起る...。
彦根藩の自重により報復の連鎖は一時止まりますが...、時代は一気に進んで参ります...。

この8年後、大政奉還...。8年という歳月、我々後世の人間にとっては短い...となるかもしれ
ませんが、何百年も続いた時代の終わりの8年。殺される、報復されるのを承知の上での決断。
時代の転換期の“決断”とはそういうものらしい...。歴史に学べと言われる昨今であります...。



桜田門外...④

2024年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

そして香取神宮、漆黒の社殿...。さて、安政の大獄にて自らの親分を蟄居(謹慎・幽閉とも)
させられた...。しかも家格は御三家。いかに大老と言えども無礼ではないか。親分の顔に泥を
塗られ、家臣たちは黙っているのだろうか...。否、当然のことながら報復...であります。

1860年3月3日、雪の降りしきる桜田門外にて、水戸(脱藩浪士)18名に対して、井伊
(彦根藩)側60名。数の上では井伊側が3倍。しかも井伊直弼は居合の達人。剣どうしで
正対すればまず負けない...。幕府要人ですから警護も厳重と思いきや、結果はあっという間に...。

井伊側は60名と言っても半数くらいがアルバイトだったようです。すでに政権末期であり、
警護等も形骸化。体裁を整えるのにアルバイトの警護を付けるも、バイトの方々まさか襲撃される
とは思っておらず。俺はバイトなのに...。斬られたりしたら割に合わない...逃げろ...と。

半分くらい逃げたそうです。そして当日は大雪。刀が汚れないように布を掛けてあった...。それ
を外そうにも寒さで手が“かじかんで”刀が抜けない...。そして水戸脱藩浪士はピストルを持って
いた...。時代の変わり目...あっけなく。この話題次回で一区切りと致します。

桜田門外...③

2024年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

鹿島神宮から息栖神社へ。息栖神社...、鹿島・香取両神宮の協力神であり確かご神体は川の中
(或いは川そのもの)ではなかったかと思います。この一帯、利根川本支流に、北浦・霞ケ浦
水上交通の要衝であり、銚子はじめ周辺地域や、お江戸とも繋がりが非常に強いところ...。

さて尊王攘夷とは、皇室を敬い・外敵を打ち払え!となりましょうか。吉田松陰はじめ幕末志士
たちが行動するうえでの思想的根拠。この尊王攘夷思想の震源地が水戸であり御三家の水戸斉昭
そして過去に何度か掲載させて頂いた藤田東湖の存在が際立ちます...(本日は省略します)

聞いた話で確かめてはおりませんが、家康が御三家を建てた時、その家紋(葵の御紋)の形を
少し変えていた...と。お江戸は3枚表、尾張、紀州、は何枚か裏。水戸は最初から全部裏。
これはやがて幕府と皇室が争うようなことあらば、水戸は幕府ではなく皇室のお味方をせよ...と。

親藩筆頭格(大老)の決断は、御三家(水戸)の尊王攘夷に反するもの。最近で言えばメンツと
メンツのぶつかり合い。しかも組織の屋台骨を支えねばならないものたち...。組織終焉の特徴です。
そして安政の大獄。吉田松陰は死罪、徳川斉昭は永久蟄居...。さて...(続きは次回に)



桜田門外...②

2024年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

写真、鹿島神宮の樹叢(じゅそう)。この場に行くといつも気持ちが洗われるようです。樹叢
とは人の手による植林ではなくて、自然に育った樹林のことらしいです。銚子に渡海神社という
名所があり、そこの樹林は極相林...と。樹叢が時を経て、極まった形に...(この話題いずれ)

御三家、親藩、鎖国、朱子学...など、幕藩体制を支えた仕組みがどんどん極まって行き、最終的
に“手を入れざるを得ない”状態へ。御三家・親藩に代わり、薩長はじめ有力外様大名、朱子学は
陽明学へ、そして鎖国は開国へ。極まると、反対側に触れるもの(自然が教えてくれています)

“お家大事”もさることながら、大老として恐らく日本の将来という大きな視野での決断=開国で
あったと思われますが、長らく続いたものを“変える”には死を賭した覚悟が必要であること歴史
より明らかです。開国という決断に対して水戸藩(御三家)、大反対。攘夷!攘夷!...と。

攘夷という言葉を現在使って良いのか否か分かりませんが、当時は頭に尊王が付いて尊王攘夷。
明治維新の震源地は水戸...。と言われており、私もそう思っているのですが、思想・考え方と
言いますか、幕末の水戸藩の存在は非常に大きい。さて水戸藩は開国に大反対(続きは次回に)

桜田門外...①

2024年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

過日、天気も良かったので再び東国三社(鹿島・香取・息栖)参りに行って参りました。折しも
知人と明治維新に繋がる天保・安政年間の話になりまして、出てきたお話が“桜田門外の変”...。
鹿島神宮の正門(写真上)の横に、明治維新150年記念と...。多分繋がり多いと思います...。

写真は、鹿島・息栖・香取と廻った順番に掲載させて頂きます。東国三社と桜田門外の変...、
直接とは言わずとも、遠因であったり何か関係性はあるかと思いますが、今回はそこには触れず
“桜田門外の変”...、その時代背景や、今に繋がる(自分なりに感じた)教訓などを...。

関ヶ原以来の親藩・筆頭格の彦根藩。その藩主・井伊直弼。幕府の大老にして幕末における
大きな変化に際して職務を全うし“決断した”人であります。長らく続いた鎖国を終わりにして
開国させようとする。長らく続いたものを終わりにすれば当然、反発される...。

昨今、周囲で聞こえてくる言葉。リーダーが決断しないというのは、誤った決断をするより
なお悪い...。そもそも決断時点で、正しいか、誤っているのかなんて分からない。自分の責任
になるのが嫌で先延ばし。これは最悪...。兎にも角にも井伊直弼は決断する(続きは次回に)

多古町にて⑤

2024年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

多古町の締めくくり、やはり水田(田んぼ)...。歴史的建造物はじめ他にも見どころ満載で
あるのですが、やはり多古と言えば“多古米”...。かつて親藩(松平家)であった、日本最古の
大学があった...、統治形態や制度、形は変わっても、変わらないものの象徴がこの田んぼ..と。

田んぼという構造物(実際、田んぼ自然ではなく人工の構造物)だけでなく、そこで米作りに
励む方々、それを応援する方すべて。時代を越えて継続させる取り組みのすべて、栗山川はじめ
“繋がり”のことも...これらがすべて地域であり、これは真理であると思っております。

以前、名も無き...と生意気にも掲載させて頂きましたが、まさに名も無き方々の絶え間ない、
連綿不断...。最近、この地で多古の友人と田んぼ見ていると、そんなことを感じております。
昔はタコ、タコ(あの8本足の)と少々、侮蔑的な言い方してたよね...。お恥かしい限り...。

友人に突っ込まれて、ただただお恥ずかしい。本当に知らないというのは罪悪で、その地の
歴史文化を知らず、表層的なこと(からかったり:意図的か否かに関わらず)ばかり...。地域
とは何か?と問われる時がありますが、昔の友人と語らい足元をもっと深く掘ること...と。

多古町にて④

2024年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

歴史に思いを馳せると謙虚な気持ちになるものです。何十年どころか、人間の一生では完成しない
気の遠くなるような時間が紡がれている訳ですから...。徳川幕府(お江戸)にとって現在の千葉県
は特別な場所。隣接地でもありすぐに乗り込んで来られる距離ですから、まず信頼できる人を配置。

故に親藩が多いですが、東北、九州のように何十万石の大大名という方はおらず、みな数万石と
規模は小さい。そこに銚子のような天領、旗本の私領、寺社領が非常に複雑に絡み合っている。
恐らく“意図的に”そう配置したのだろうと思います。すべて幕府安泰の為に...。

そして、非常に貴重な食糧供給基地。利根水運を始め、ロジスティックス(物流:もともと軍事用語
で兵站)の要。鎖国をしていた徳川年間、度重なる飢饉に食料基地である現多古町や銚子の人々が
がどのように振舞ったのか? これを知ることは、今とこれからを生きる手掛かりの一つと思います。

安泰に見えた徳川幕府もついに倒れ、かつての親藩は新政府にとって扱いにくい存在...。何事も作用
と反作用です。前時代の最適は、次の時代には最適とはならないのが世の常です。ここでまたかつて
この地にいた方々がどのように振舞ったか? 日本寺にて想い尽きることなく...(次回で一区切り)


多古町にて③

2024年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム

日本寺は何度か掲載させて頂いておりますが、日蓮宗の名刹。日蓮上人は千葉県(天津小湊)
(南房総:千葉県の南部)ご出身で、千葉県内には日蓮宗の寺院多いです。他方、千葉沿岸部
(銚子を含む)に多いのは真言宗。これは千葉県沿岸部と紀州・和歌山とのご縁によるもの...と。

信仰の道を辿って行くとまた興味深い史実も見えて来るのでしょうが、このことは後日と致し
ます。日本寺、参道を抜けると本堂横に“四恩の鐘”があります。四恩とは、①父母、②衆生、
③国王、④三宝を表すようです。父母、国王はそのままですが、②衆生とは生きとし生けるもの。

これには命あるもの全て(植物も動物も)含まれ、三宝とは仏法僧。仏とはお釈迦様、法とは経典、
僧とは僧侶のこと...。そういう教えに基づく鐘。本日はそのことだけを...。確か構造物は県の重要
文化財ではなかったかと思います。その後ろには珊瑚樹。名前のいわれは分かりませんが...。

火に強く、防火林等として寺院など歴史的建造物の周囲に植えられているそうです。境内には
本阿弥光悦による書、徳川光圀(水戸黄門様)お手植えの桜や屏風、歴史的価値のあるものが多い。
ここはかつて下総多古藩。親藩・久松松平家1万2,000石の城下町...。(続きは次回に)

多古町にて②

2024年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

多古町はかつて海底であったというミネラル分を多く含んだ土壌や栗山川の恵みで千葉県における
お米の一大産地であると同時に、大和芋の生産も県内トップクラス。栽培に適した環境と地域の
皆さんの連綿不断の努力の賜物...と思います。銚子とも色々な意味で交流は深いです。

私の祖父は大正年間、小田原に蒲鉾職人になるための修行に行ったと聞かされております。ネット
情報等も全くない時代、単身小田原に行った行動力に驚きますが、小田原にてハンペンの製法を
学んでいたそうです。ハンペンは海の恵み(魚)と、山の恵み(大和芋)が出会った産物...。

小田原でそれを見て修行を終えて銚子に戻り、多古町の大和芋と出会う...。基本的にハンペン原料
は銚子で揚がるサメ...。このサメが大和芋と出会い、昭和初期から銚子はこのハンペン製造が非常
に盛んだったようです。未利用魚だ、何だかんだと昨今言われますが、足元(歴史)に答えです。

部分で考えると行き詰まってしうことも、全体図を描いたり、周辺に目を向けたり、その繋がりを
想ったりすると...これは!ということ多々あるかと。商品だけでなく、人々の心の拠り所(信仰)も。
多古町は神社・仏閣が非常に多いところ...。そして再び、日本寺に辿り着きました...。(続きは次回に)

多古町にて①

2024年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

これから数日、多古町のこと。千葉県香取郡多古町...。多古町のHPによると人口は(令和5年)
約14,000人。街の中央部を南北に“栗山川”という河川が流れ、その流域には有名な多古米
の田んぼが広がっております。源流は成田市にあり、最終的に九十九里(横芝光町)に注ぐ...。

栗山川は確かサケ(魚の鮭です)遡上の南限であり、上流にある山田町にある山倉大神では毎年
このサケの奉納儀式等が営まれております。この山倉大神も大変由緒のあるところなのですが、
この話題は後日とし、多古町のこと続けます。多古と言えば多古米で、それは栗山川の恵み...。

栗山川沿いに、あじさい館という道の駅があり、連日大賑わいであります。ここに来ると多古の
歴史がよく分かりますし、多古の産物を堪能することが出来ます。そこで供されるお米も多古米。
冷めても美味しいお米であり、お寿司屋さんの知人曰く、寿司米は多古米に限る...と。

お米に限らず農産物は、田んぼや畑の土質や周辺環境もさることながら、生産者やそれを支える
方々による連綿不断の努力の賜物。かつて皇室献上の献穀米になったり、各種品評会で最優秀と
なったり、そんな栄誉の数々も連綿不断であったればこそ...と(続きは次回に)

戒め...。

2024年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム

神社・仏閣を訪れますと、今週(今月)の標語のようなものが掲載されております。内容が自らの
現在に必要か否かではなく、その時、そこに行こうとして(実際行って)、目にした戒めはご縁で
あり腑に落ちるか否かは別にしても、そのご縁は今の私に必要なもの(こと)と解釈しております。

写真は、多古町にあります日蓮宗の名刹・日本寺にて。このお寺、紫陽花が有名。紅葉も実は桜も。
一帯が季節を問わず、何とも言えない雰囲気を醸し出しております。この裏手には日本最古の大学
と言われる飯高檀林。檀林とは栴檀林(せんだんりん)の略称で、仏教の学問所のこと...。

因みに栴檀は双葉より芳し。なることわざあります。栴檀(せんだん:白檀をさしているようです)
は双葉(小さい)頃から独特の香気を放つ。ここから転じて大成する人は幼少期から優れているもの
だ(故に、幼少期の教育は非常に大切ですよ)そこに繋がっていくようです。

さて最近、成田市方面に行く機会が多くなり、その通り道に多古町はあります。多古町の名物を
思い付くままに...。紫陽花、多古米、大和芋...。そして由緒ある神社・仏閣多数...。個人的に知人
友人の多いところで、今回は何故か日本寺さんに呼ばれたような気がして...(この話題少し続けます)

川の流れ...。

2024年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム

ただボーっと川の流れを眺めておりました...。最近、“ただ”、“ボーっと”風景を眺める機会、
増えました。やる気がない、無気力とは感覚が違う...。自分なりの肉体・精神の回復の方法
とでも(自分でそう考えているだけなのですが、どうもこういう感覚が自分に合うようです)

余計なことは考えず、ただ、ボーっと。後になって少し理屈が付いて、常に流れて行くのは
世の常と同じ。同じ水(のように見えて)、さっきと今は違う水...。目の前に流れている水が
一番新しい...。そしてこの流れを見ていること、生きている証...。

最近周囲で、あと何年で定年...。定年後はどうしようかな~。あちらこちら体の具合が悪くて、
居場所がない、何をすれば...等々。そして仲良かった先輩、同級生の死。年齢を重ねて行けば
こういう報に接する機会も増えて、究極的に思うこと、将来不安や悲しみはほどほどに...。

少々誤解を生じるかもしれませんが、この“ほどほどに”ということ、これからを生きる知恵の
ような気がしております。上手く表現できませんが、生きていれば不安もあるし、人が死ぬ
のは悲しい...。それでも、ただ、ボーっと川の流れを見ていると落ち着く。そんな心境です。

蛙化現象②

2024年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム

本日も写真と本文無関係ですが、利根かもめ大橋付近...。利根川河口・最下流にあるのが銚子大橋。
銚子大橋から利根川を遡り(およそ10kmほど)、そこにあるのが写真・利根かもめ大橋。ここを
茨城方面から銚子に向かって進むと、先般掲載の清滝トンネル。その先、農道から成田方面へ...。

さて蛙化現象のこと。(最近の定義による)些細なことで相手が嫌いになってしまう。これSNSとか
便利な社会の裏返しのようです。情報が氾濫し、“盛った”話を信じ込んでしまい、あの人は凄いのに
私なんて...。或いは相手に完璧を求めすぎ(そんな人はいないのに)...そんなことが一因のようです。

蛙化現象の反対は、蛇(へび)化現象というようです。蛇は蛙を飲み込んでしまいます。ここから
好きな人の冴えない一面を見てもっと好きになる。好きなので何でも許せる...そんなニュアンスを
含んでいるようです。蛙と蛇、正反対の概念が同居する。若者の間で認知度が高い現象とのこと...。

思考が極端から極端に揺れ動く。これは今に始まったことではなく、我々も先輩方の年代も“若い”
頃はあった訳で、同じような経験あろうかと思います。揺れ動くことは若者の特権ながら益々便利
になっていく社会の副産物。これに対応するに世代を超えた経験値の共有...。率直な感想です。