銚子・角巳之・三代目

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囚人のジレンマから

2006年11月12日 | 公共経済学から

100_0599 やはり囚人のジレンマは反響が大きかったです。悪い事をしても共謀して逃げろ。という事なのか?というご意見も頂きましたが、あくまでもこれは“囚人のジレンマ”という概念を説明するための例え。誤解なきように...。ただ少々思うところがあります。先日のスローライフ・サミットで配布された資料に興味深いものがありました。日本・韓国・フィンランドの学生対象に行った“対人信頼感の比較”というものが手元にあります。これによると、ほとんどの人は基本的に善良で親切であるという問いに対して、そう思う、ややそう思うと答えた割合、韓国、フィンランドの80%超に対して日本37%。この国では気をつけていないと誰かに利用されてしまう。という問いに対して日本の学生の80%が、そう思う、ややそう思うと回答したようです。これらからすでに日本国内において対人信頼力とか絆というものは崩壊している。そんな報告もあります。この先どうなっていくんでしょうか? 他者を信頼したり協力したりする事が出来ず、自分の利益ばかり願うと翻ってその個人に不利益な状況が降り掛かる。囚人のジレンマという概念はそのことに警鐘を鳴らしているように思います。さて、本日の写真は外川漁港近く犬岩付近の風景。雲の合間から時々太陽光。幻想的な雰囲気でありました。


囚人のジレンマ②

2006年11月11日 | 公共経済学から

100_0615 囚人Aが自分の損得勘定だけで選択をするとどうなるか? もしBが自白した場合、自分が自白しないと相手は無罪で自分の罪は倍。従って自分も自白する。また、Bが黙秘した場合、自分が自白すれば無罪。従ってこれまたAにとっては自白するという選択がベスト。要するにAが自分の損得勘定にのみ凝り固まっている状況下においては、“自白する”という選択肢を取らざるを得なくなり、同様にBも同じ状況に陥る事から、結局のところA,Bともに自白し、刑が確定するということになります。このように自分の損得勘定に凝り固まって、自分“だけ”のベストな選択をした結果、二人が協力して得られる状態よりも“悪い状態”に陥ってしまう事。これが“囚人のジレンマ”と呼ばれており、公共経済を考える時に良く登場して参ります。身近に起きている問題と重ねると考えさせられる事が多いです。ここで書いた、黙秘して逃げるとか、取引するとか、これらあくまでも囚人のジレンマという概念を説明するに際してしばしば用いられるものであって、間違いを犯しても共謀して逃げろ。などという事では全く有りません。この“囚人のジレンマ” 物事の価値判断を行う“モノサシ”が少ない等、閉塞感を感じる社会構造の中で必ず湧き上がって参ります。バブルの時もそう。“勝ち組”“負け組”という単一価値感を煽るような世相の現代もそうかもしれません。写真は銚子川口・千人塚(せんにんづか)付近から銚子市内を望む。ここは夕陽の絶景ポイントの一つです。この日は雲が多かったですが....。背後に見えるのはキャベツ畑の風車群です。


囚人のジレンマ①

2006年11月10日 | 公共経済学から

100_0738 本日は囚人(しゅうじん:刑務所に服役している人)のジレンマ。二人組みの男が銀行強盗をして逃走。警察は以前からマークしていた二人組みを別件逮捕。銀行強盗の確たる証拠はないため、容疑者の自白に頼る状況となった。そこでその二人組みを別々の部屋に入れ(事前に相談なども出来ない状況を作って)取引を開始する。(便宜的に二人組みのそれぞれをA、Bとします)警察はAに対してこう言った。①もし君が自白し、Bが自白しなかったら君を無罪にする。②しかしBが自白し君が自白しなかったら君の刑は2倍だ。③もし二人とも自白すれば刑はそのままだがね(双方、銀行強盗の罪が確定)さて、この場合、Aはどういう行動を取るでしょうか? ①~③に含まれていないのはA,B双方が黙秘する事。事前に相談できない状況ですが、双方に信頼があれば双方黙秘し逃げ切る事が可能かもしれません。が、しかし、こうならないのが世の常。いわゆる個人の損得勘定“だけ”判断をすると、囚人A、Bともに自白せざるを得ない状況に陥って参ります....。続きは明日。昨日の写真は千葉県旭市と匝瑳市を繋ぐ広域農道。本日は昨日の近海小型底引きの水揚げ(午前6時半ころ)の風景です。日の出時間が遅くなり、だんだん朝の空気が冷たくなっていくにつれて、風景が“凛”とした鋭さを帯びてきたと感じております。


囚人のジレンマ(その前に)

2006年11月09日 | 公共経済学から

100_0662 本日から“囚人(しゅうじん)のジレンマ”という概念を.....。その前に、昨日の共有地の悲劇に際してメール等のご意見を頂きました。そもそも公共経済学とは何なのか?と。いわゆる一般的に言われる経済学は全体像を捉えるマクロ経済学から、目の前の事を捉えるミクロ経済学など様々な視点がありますが、これらは主に“市場(モノとお金の交換などをするところ)”を中心に捉えたものです。多くの人から価値があると認められたものは沢山売れたり高い値段で取引されるし、反対に価値がないと思われてしまったものは売れないし、売れたとしても値段が安い(すべて一般論ですが)。資本主義社会においてこの過程は自由競争であり、モノの流通や値段の決定は市場の機能に任されております。これに対して、昨今話題の年金とか医療、福祉、環境...食糧問題などは、市場に任せっきりにしてしまうと、うまく調整する事が出来ない。例えば人口は増えているのに耕作地は増やす事ができず、食糧が不足している状態を市場に任せると、あっという間に価格は高騰し、食糧を手に入れることが出来ない人が続出する。公共経済学はこれら市場で上手く調整できない領域を克服するための分野です。上記の食糧の話、東京のある子供(小学校低学年)から、価格が高騰しても買えるだけの金を持ちゃいいんだろ。金の無いやつは死んでしまえばいいんだよ...。そんな回答を聞きました。昨今の問題の根深さを知り、戦慄を覚えると共に、故に公共経済学の問題提起をしてみようと思った次第であります。最終的には経済の話ではなく人間の話に行き着くのですが....。


共有地の悲劇②

2006年11月08日 | 公共経済学から

100_0723 みんなが牛を増やしたら、牛100頭分しか賄えない牧草地に牛が110頭もいる状態になった。牧草が足りないので、牛は十分に肉を蓄える事ができず、結果として1頭あたり90万円でしか売れなくなった。売上は11頭×90万円で990万円。牛の量を増やしたのに売上は減ってしまい、さらには土地が痩せ、再び牛を放牧する事が出来なくなってしまった。これが“共有地の悲劇”という概念を説明する際に良く登場してくる牧場の話です。売上を増やそうとか、もっと儲けを。と思うのはごく普通の感覚(正しくは売上“を”上げるのではなく、様々な努力を通じて、売上“が”上がる。流通業の先輩に懇々と諭された事ですが、ここでは一般論として売上という言葉を使います)ただし個人・個人が自己利益の増大だけを考える、そんな選択を重ねていくと、社会全体として不都合を生じさせ、甚だ逆説的ながら、翻ってそこに属する個人・個人に不利益となって跳ね返る。合成の誤謬と全く同じ結果になって参ります。環境問題を考える時にもこの共有地の悲劇は、環境に配慮したって1円にもならない。という意見の反論として登場します。牛を増やす前にまず牧草地。この牧草地を考える事が共有地の悲劇を回避する最良にして唯一の解決策という事であります。明日はこれまた公共経済学でしばしば用いられる“囚人(しゅうじん)のジレンマ”を。


共有地の悲劇①

2006年11月07日 | 公共経済学から

100_0728 “共有地の悲劇”という言葉があります。誰の持ち物でもない場所(海とか山とか)があって、そこから得られる資源(魚、農産物、景観....)をみんなが守りながら大切に使っていこう。という状態である場合は何の問題もなし。ただし、一人くらいは良いだろうと黙ってちょっと拝借...。そういう状態が続き、俺も、俺もとみんながちょっとだけ拝借を重ねていくと、全体では膨大な量となります。注意すると、“みんな”やっている事だとなって、最終的には誰の責任なのか分からない状態になる。その時はすでに、みんなが悪い状態になっていて、翻って、そこに所属する個人・個人の不利益となって跳ね返ってくる。この状況が“共有地の悲劇”と呼ばれています。この例は放牧の事例でしばしば説明されます。ある放牧地に10人の牧場主がおり、各々10頭の牛を飼っている。この放牧地は全部で100頭の牛を飼うのに最適な牧草の量があった。この時、牛は1頭100万円で売れ、1牧場あたり1000万円の売上があった。ある時、その中の一人がもっと売上を増やそうと牛を1頭増やした。そうしたら1頭99万円になってしまったが、その牧場主の売上は99万円×11頭で1089万円となった。1頭あたりの売上は減ったが、売上の金額は大きくなった。それを見た残り9軒は俺も俺もと牛を各々1頭ずつ増やした.....。続きは明日。写真は日曜日の雲。面白い形をしておりました。


スローライフ・サミット

2006年11月05日 | 公共経済学から

100_0692 一昨日、スローライフ・サミットが銚子市民センターで開催されました。東大の先生の基調講演のあと、銚子市長はじめ各地の行政の長、識者の方々のパネルディスカッション。サブタイトルは、“銚子風なスローライフとは何でしょう”でした。さてさて、それでは銚子風なスローライフとは何なのでしょうか?....。食育もそうですし、冒険遊び場もそう、最近いろいろな切り口で問題提起されておりますが、根源は“時代の転換期”という事と、少ない“モノサシ”で物事を判断してきてしまった弊害、さらにそれらを醸成したり修正したりする社会の構造(文化水準、社会の成熟度とも言われています)ではないか?と感じております。私は80年代に学生時代を過ごし、大学時代はバブルの絶頂期。より大きな会社に入ることが一生の幸福という雰囲気があり、大学、高校はその予備校。そんな中でも、それは違うと言っていた仲間や先生方はいましたが、全体から見ればごく少数。その世代に20年後の今、“幸せですか?”という問いかけをしてみたら、答えが見えてくると思います。スローライフ(ゆっくり)もスローフードも、ファースト(速い)に対する反語。そういう近視眼的な考え方では全体が見えてこない。以前、“合成の誤謬”という内容で何回か掲載しましたが、これから数日、学生時代に少数派であった先生方が言っていた“公共経済学”の内容と自らの銚子暮らしで感じていることを併せて掲載してみたいと思います。学生時代は全く人気が無かった公共経済学ですが、今教科書などを読み返し、貴様らそんな考えでは将来を見誤るぞ!と憤慨しておられた先生方の顔が何故か浮かんでおります。