吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

グローバルスタンダード化だけが信頼と暮らしやすさ社会の処方箋か。

2006年11月01日 | Weblog
 JIS(日本工業規格)やJAS(日本農林規格)などは、典型的なナショナルスタンダード(国家的規格/標準)だ。信頼と共存を高め、暮らしやすい社会や安心と繁栄できる経済市場をつくるには、お互いが同じく理解できるモノサシや約束が大事。お互いが同じモノサシ(尺度や基準)を利用することで”誤解や不信”をなくそうとするのがスタンダード(規格)と言われるものです。
 貿易や経済活動の国際化が進めば進むほど、自国のスタンダードと(貿易)相手国のそれが異なっていることが取引や交渉ごとの障害になっていることに気づいた人々が、お互いのモノサシ(規格)を共通な同じものにしようと、グローバルスタンダード(国際標準/規格)化を進めることになりました。
 しかし、この”すべてよさそう”にみえるグローバルスタンダードは、どちらかというと欧米先進国の基準に、日本やその他のアジアや開発途上国が諸国の基準を合わせようという動きなのです。だれもがお互い共通に理解でき、信頼と安心できる貿易や取引ができることを望んでいます。モノサシがひとつであることが、望ましいのは解っていますが、経済水準や生活水準はもとより、国民の身長や体重および暮らし方や価値観はさまざまです。一年中暑い国もあれば、寒い国など気候や国土の違いも、モノサシが違っていた背景ですから、なかなか”共通化”は難しいのです。
 格差の根本は、この地域格差です。都会と地方、先進国と開発途上国そして富める国と貧困国の格差の根源に、”生き方や価値観”と”歴史文化と教育”がありますが、何といっても「知」(知識情報)の格差があるのです。これは、いますぐ解消できるとか解決できることではありません。レベル(水準)を認識するがために、ダブル・スタンダードが容認的に発言されます。一方で、ダブルスタンダード、イコール二重基準や二重社会といわれ”悪者”扱いされますが、世の中ほとんどがダブルスタンダードとも言えます。
 富める国と貧しい国、都会と地方、上流社会と大衆社会、IT産業や農業など、国や社会としてみれば、平等性や一様性などないのです。統計や社会学などでは、社会や人々などの分布を大体一山型(正規分布)で教え”平均”などを語りますが、多くは双山型やロング・テール型が多いのです。それぞれの分布に合ったスタンダードがあった方がいいというのがダブルスタンダードになるのだ。
 現実、大きい人と小さい人のL、S、夏物と冬物、ONタイムとOFFタイムなどや国によって異なる甘さ、辛さや食品成分、必要な栄養成分などみんな違います。エレガンスやカジュアルといったファッションに対する感覚も異なるでしょう。まぁ、どちらかといえば国内市場問題と国際貿易を一緒に言っていることが問題なのですが、カオスや混沌という社会現象も紐といてみれば、このようなところから出ているのかも知れません。規制せず、基準化せず”あまり考えず”社会や国の人々が、自分のしたいようにやれば結果、”よい社会”になれば、これ以上のことはなさそうです。
コメント (2)
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