吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

一億総懺悔や社会環境の変化に帰するは、体制トップの腐敗。

2006年11月14日 | Weblog
 少子高齢化問題の課題化もはっきりしない中、子供やお年寄りなど社会的弱者がいじめられている。”いじめ”を苦に自殺する者、いじめを隠した責任から自殺する校長、未履修などおぼろげに知っていても”知らない”ことのほうがいいという教育委員会や管理者、”なれあい”ながらこれを秘匿する学校(校長)と教育委員会、そして文教に携わる文科省。この何年、各都道府県から文科省に報告された「いじめ自殺」は ゼロの連続だという。私が校長をしている学校に”いじめ”などあるはずもないし、履修や学校運営の”ウソ”の報告など出すはずがないという全国の校長と、これを”そうでしょう”と受領してきた教育委員会。
 教養や見識のあるこの”大人たち”をみて育ってきた少年や若者たちは「大人のズルや勝手」を自分たちの”ワル”の言い訳にする。現場の混乱や崩壊を知っている教育関係者や大人たちは、無難に公務員を勤め上げるために、「ワルイ」のは近年のデジタル・ゲームやアニメやWeb サイトなど、子供たちを取り巻く社会環境だという。あげくの果ては、根本は”教育基本法”にあるなどといい、政府や文部科学省の人たちは、教育基本法の改正を急ぐべきだと、審議すら”もう十分した”という。「やらせ」(タウンミーティング)や「ウソ」(いじめや履修)を受容してタテマエ社会化に安住しようとする文科省や官僚たちを、何の利害関係があるのか”見過ごす”政府や政治家たち。教育や教師のレベルの低下は、本当なのか。昔の先生は、そんなに今よりも優れていたのか。半世紀以上も同じ教育基本法の基でやられてきた文教行政をリードしてきた文科省が、どこかでカジ取りを間違ったのか、わたしにはわからない。
 教師や学校の質がここに来て急にレベルダウンしたとも思えないが、動機や責任意識やテクニックが低下してきたのは、文科省の指導要領やリーダーシップが弱くなったからで”復権”しなければとあせっているような文部科学省。さんざん、自治体や教育委員会を介して”好きに”やってきた文科省や政府は、教育委員会不要論や改名論に”耳”を貸している。
 このような指導層や大人たちの混乱や混迷をみて、ワルがきどもは、今日も”いじめ”をつづけている。むかしも”あった”などとテレビの評論家が言えば、彼らの意気(?)はますます上がり、デジタルゲームやWeb サイトのバーチャル・リアリティの世界を現実の世界に持ち込んで、一緒にしている。
 情報化社会やITデジタル社会の社会的革新面を、効率や合理性にのみ置き、ムダや人間的な失敗を取り入れず、授業時間さえ”短縮”化し、”ゆとり”教育や人間性教育だと言ってきた。少々”欠ける”部分があるなと思えば、道徳や倫理社会時間を入れれば済むと思う。依然、学歴社会の世の中だから、親も子供も、そして先生も受験科目に集中して、試験の(正)回答率が高いほど”優秀だ””いい学校だ”と思う。
 「なるべくしてなる」世の中や社会傾向を断ち切るには、体制の変革をおいてしかないのだが、こういえば”だから教育基本法の改正だ”という。半世紀もこの同じ教育基本法で”昔もイジメはあった”が、現在のように社会化しなかった姿を取り戻そうと考えたから「教育再生」ではないのか。教育再生会議も出発は、教育基本法の改正だという。”愛国心”をどう入れようかなどに腐心し、教養や人間性や人(品)格形成や皆で共同して暮らすいい社会づくり教育など”どこ吹く風”なら即刻止めて欲しい。ここは、政治家とマスコミの諸君の見識向上に期待するばかりだ。
コメント
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