少し、考え直した。
今日は結局自宅待機になり、
一日中ずーっとテレビとネットで情報を収集し、
そこから様々な判断をして、
顧客や職員に告知・連絡して、会社に報告して…
一方で自分の生活もあるから、必要物資の調達策を考えて…
てなことを繰り返していたから、
知らず知らずのうちに神経も消耗していたのだろう。
どうも論理的なつもりで感情的な、
そして潜在的にネガティブな方向へ偏ってしまっていたように思う。
どうも不健康なマインドになっていることを自覚して、
気晴らしに「散歩に行くぞ」と犬たちに声をかけた。
この瞬間を待ちわびていた愛犬たちは、
ちぎれんばかりにしっぽを振って、玄関へ駆けていく。
彼らには、地震も原発も停電も理解の範疇外だ。
いま、目の前で起きていること以外は関知しようがないし、
悩む必要がないというわけだ。
ここでちょっと、気づく。
あれこれ考えすぎて自縄自縛に陥っている自分の姿に。
語弊があるかもしれないが、
早く行こうよ!と瞳と前脚とで訴えかけている、
目の前の彼らのような生き方だって、アリかもしれないのだ。
表へ出た。
寒くはない。春の夜の生暖かな風。
ダウンはいらなさそうだ。
犬たちは颯爽と駆けてゆく。
近所の牛丼屋もファストフードも、しっかり営業中。
さすがにガソリンスタンドは閉まっている。
これはちょっと痛いかな。
サインを消したコンビニ内には、おにぎり・パン・弁当はないが、
ジュースはいっぱいおいてある。お菓子だってある。
選り好みしなければ直ちに飢渇するというものでもない。
高架を電車が通り過ぎていった。
マンションのエントランスや廊下の明かりも、
信号も街灯もみんな点いている。
ふえっくしょ~い。ズルズルズル。
…花粉もしっかり飛んでいる。
物流が充分に機能せず、非常時には違いない。
しかし、日本人の「充分」は世界的に見てかなり豪華で贅沢なレベルだ。
その基準が満たせないからといって、
直ちに命に関わるというものではない。
冷静になれば解ることだ。
ブログやツイッターなど、ネット上で、
識者がいたずらな騒ぎをたしなめるのは、
まあ論理的な必然だ。
しかし、冷静でいられる識者の方々のうち、
実際に被災した方はどれくらいおられるのだろうか。
僕が今回、徹頭徹尾心がけたことは、
できる限り冷静に、論理的に、ということだった。
だが、振り返ってみるとやはり、心理的には余裕を失っていた。
不安・焦燥・苛立ちを懸命に論理で抑え込もうとした形跡がある。
その原因は、やはり被災経験による当事者意識であっただろう。
被災とはいっても僕の場合は大したことはない。
なんといっても、家族や家財、ライフラインに被害がない。
しかし、僕の職場は大きなダメージを受け、
僕が毎日通っている、職場のある街は、
死者こそないがインフラが相当に破壊されている。
液状化で道路は寸断され、建物は傾き、水が出ない。
ガスも止められている。
下水設備が致命的なダメージを受け、トイレが使用できず、
マンション高層階の住人は地上まで何度も往復を強いられる。
小中学校は休校をやむなくされ、電車は止まり、
そこかしこに亀裂が入り、渇いた泥が粉塵となって舞い上がる道を歩き、
自衛隊の給水車に列を作る。
親しんだ職場の街が荒れ果てるさまを、目の当たりにした。
ここには、多くの教え子たちが、その家族の方々が住んでいる。
とても、他人事ではいられない。
理屈じゃないのだ。
極めてエモーショナルな出発点なのだ。
冷静に事態を分析…なんて、到底、無理だったのだ。
この状況を乗り越えていくには、方法はただひとつ。
「人間の最大の理性とは、すべてを冗談に換える力である」
を実践することだ。
冗談なんて、言える状況じゃないかもしれない。
冗談によって、現実は何も変えられない。
しかし、それは理屈だ。
気持ちは変わる。変えられる。
世の中がどんな状況になったって、僕らは生き抜くほか、ない。
最後に自分を支えるものは、気力だ。
どんなに筋が通っていても、事実を見極められていても、
絶望的な気持ちのままでは事態は悪化するばかりだ。
せめて強い気持ちのまま、厳しい現実にのぞんでいくためには、
冗談を忘れないことだ。
その意味では。
安全地域にいる人が、日常生活を懸命に生きるのは悪くない。
もし自分たちがこうなったらどうしようね、と、
気軽に話題にすることも悪くない。
自分は独りではないし、
この事態に立ち向かわなければいけないのはみんな同じだ、
という連帯感こそが、大切なのだろう。
だからアーティストやスポーツ選手がイベントをやろうという気持ちもわかるし、
逆に、やっちゃいけないんじゃないかという気持ちもわかる。
どちらが正しいのかは、状況による。やり方による。
ただ、否定しないこと、だろう。
寛容であること。
僕はこれを心がけていこう。
今日は結局自宅待機になり、
一日中ずーっとテレビとネットで情報を収集し、
そこから様々な判断をして、
顧客や職員に告知・連絡して、会社に報告して…
一方で自分の生活もあるから、必要物資の調達策を考えて…
てなことを繰り返していたから、
知らず知らずのうちに神経も消耗していたのだろう。
どうも論理的なつもりで感情的な、
そして潜在的にネガティブな方向へ偏ってしまっていたように思う。
どうも不健康なマインドになっていることを自覚して、
気晴らしに「散歩に行くぞ」と犬たちに声をかけた。
この瞬間を待ちわびていた愛犬たちは、
ちぎれんばかりにしっぽを振って、玄関へ駆けていく。
彼らには、地震も原発も停電も理解の範疇外だ。
いま、目の前で起きていること以外は関知しようがないし、
悩む必要がないというわけだ。
ここでちょっと、気づく。
あれこれ考えすぎて自縄自縛に陥っている自分の姿に。
語弊があるかもしれないが、
早く行こうよ!と瞳と前脚とで訴えかけている、
目の前の彼らのような生き方だって、アリかもしれないのだ。
表へ出た。
寒くはない。春の夜の生暖かな風。
ダウンはいらなさそうだ。
犬たちは颯爽と駆けてゆく。
近所の牛丼屋もファストフードも、しっかり営業中。
さすがにガソリンスタンドは閉まっている。
これはちょっと痛いかな。
サインを消したコンビニ内には、おにぎり・パン・弁当はないが、
ジュースはいっぱいおいてある。お菓子だってある。
選り好みしなければ直ちに飢渇するというものでもない。
高架を電車が通り過ぎていった。
マンションのエントランスや廊下の明かりも、
信号も街灯もみんな点いている。
ふえっくしょ~い。ズルズルズル。
…花粉もしっかり飛んでいる。
物流が充分に機能せず、非常時には違いない。
しかし、日本人の「充分」は世界的に見てかなり豪華で贅沢なレベルだ。
その基準が満たせないからといって、
直ちに命に関わるというものではない。
冷静になれば解ることだ。
ブログやツイッターなど、ネット上で、
識者がいたずらな騒ぎをたしなめるのは、
まあ論理的な必然だ。
しかし、冷静でいられる識者の方々のうち、
実際に被災した方はどれくらいおられるのだろうか。
僕が今回、徹頭徹尾心がけたことは、
できる限り冷静に、論理的に、ということだった。
だが、振り返ってみるとやはり、心理的には余裕を失っていた。
不安・焦燥・苛立ちを懸命に論理で抑え込もうとした形跡がある。
その原因は、やはり被災経験による当事者意識であっただろう。
被災とはいっても僕の場合は大したことはない。
なんといっても、家族や家財、ライフラインに被害がない。
しかし、僕の職場は大きなダメージを受け、
僕が毎日通っている、職場のある街は、
死者こそないがインフラが相当に破壊されている。
液状化で道路は寸断され、建物は傾き、水が出ない。
ガスも止められている。
下水設備が致命的なダメージを受け、トイレが使用できず、
マンション高層階の住人は地上まで何度も往復を強いられる。
小中学校は休校をやむなくされ、電車は止まり、
そこかしこに亀裂が入り、渇いた泥が粉塵となって舞い上がる道を歩き、
自衛隊の給水車に列を作る。
親しんだ職場の街が荒れ果てるさまを、目の当たりにした。
ここには、多くの教え子たちが、その家族の方々が住んでいる。
とても、他人事ではいられない。
理屈じゃないのだ。
極めてエモーショナルな出発点なのだ。
冷静に事態を分析…なんて、到底、無理だったのだ。
この状況を乗り越えていくには、方法はただひとつ。
「人間の最大の理性とは、すべてを冗談に換える力である」
を実践することだ。
冗談なんて、言える状況じゃないかもしれない。
冗談によって、現実は何も変えられない。
しかし、それは理屈だ。
気持ちは変わる。変えられる。
世の中がどんな状況になったって、僕らは生き抜くほか、ない。
最後に自分を支えるものは、気力だ。
どんなに筋が通っていても、事実を見極められていても、
絶望的な気持ちのままでは事態は悪化するばかりだ。
せめて強い気持ちのまま、厳しい現実にのぞんでいくためには、
冗談を忘れないことだ。
その意味では。
安全地域にいる人が、日常生活を懸命に生きるのは悪くない。
もし自分たちがこうなったらどうしようね、と、
気軽に話題にすることも悪くない。
自分は独りではないし、
この事態に立ち向かわなければいけないのはみんな同じだ、
という連帯感こそが、大切なのだろう。
だからアーティストやスポーツ選手がイベントをやろうという気持ちもわかるし、
逆に、やっちゃいけないんじゃないかという気持ちもわかる。
どちらが正しいのかは、状況による。やり方による。
ただ、否定しないこと、だろう。
寛容であること。
僕はこれを心がけていこう。
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