僕も明日で46歳になる。
自分で書いてて、これが自分の年齢だなんて信じられない思いがする。
若ぶりたいわけじゃなくて、しっかり加齢も老化も体感しているのだが(笑)、
いつのまにやら、こんなに遠くまで来てしまったのか、という感慨。
いつのまにやら、こんなに遠くまで来てしまったのか、という感慨。
四捨五入すれば50ですからね。
なんともはや。
そして、46歳と言えば。
僕が塾業界に飛び込んだ28歳のとき、
僕に塾屋のイロハを叩き込んだ師匠ともいうべき人物がいたのだが、
彼がちょうどその頃46歳だったと記憶している。
そうだ、あの頃の彼に追いついてしまったのだ。
当時の「師匠」は、数年前に本社内の派閥争いに敗れ「僻地」の教室に飛ばされていた。
大手塾の進出で青息吐息となっていたところを押しつけられたのだが、
そこで自己流経営で数字を積み上げ、ついには社内随一の売上に達し、
かつてのライバルや上役が結果を出せないでいることに業を煮やし、
経営の傾いた本社から自分の教室を分社し、大きな利益をあげるようになっていた。
つまりはバリバリのやり手運営者だ。
つまりはバリバリのやり手運営者だ。
僕はなぜか初回の面接から彼と気が合い、ロクな経験もないのに採用された。
何も知らない僕に、授業のやり方、生徒や保護者との接し方から、
教室運営やマネジメントの基本まで、すべてを叩き込んでくれた。
どれも実に理に適っていて、目からうろこが落ちるような教えばかりだった。
彼を信頼する保護者や生徒も多く、その授業や保護者会は欠かさず見学して、
一言一句聞き逃すまいと詳細なメモを取りながら自分の血肉にしていった。
僕という塾講師の原型は間違いなくこの師匠によってつくられたと思う。
彼もまた僕という弟子を得て、いずれは後継者にと心に決めたようだった。
毎日のように質問・相談に来る弟子に、ひとつひとつ熱心に教えを授けた。
しょっちゅう一緒に食事に行き、真夜中まで語り合いもした。
笑いこけたこともあるし、ピンチには庇ってもらったこともあるし、
また時には何かと過剰な僕を真剣に叱ってくれもした。
あの頃のことはそう悪くない思い出だ。
一時期の僕は心から彼を尊敬していた。
底知れぬ読書量を感じさせる幅広い知識と深い教養。
どんな相手にも誠実に言葉を尽くし、理を尽くす。
感情的になることも少なく、自分をコントロールすることにも長けていた。
生徒・保護者から信頼と尊敬を集めているのも納得できた。
彼のようになりたいとも思っていた。
それが、あるときから少しずつ軋み始め、やがては崩れ落ちることになった。
きっかけは、お互いの立場の変化。
分社化して独立独歩としたはいいが、どの分社も大赤字。
そんな中でウチの分社だけが独走状態。
ついに本社も他の分社もウチに頭を下げる形で再統合。
師匠は新しく設立された統合全社の社長となった。
そして僕は彼の後継としていまや旗艦校となった教室を任された。
2008年のことだったと思う。
「僕が社長になったら、流儀の違う様々な教室をまとめて引っ張っていかなければならないし、いままでよりも多くの人が色んなことを言ってくるようになる。だけど『社長』に対しては本音でものを言う人も少なくなる。面従腹背もあるだろう。君の目から見て、これはおかしいと思うようなことがあれば、遠慮なく言って欲しい。君はそれができると思う」
そんな言葉があったことをハッキリ覚えている。
それまで二人三脚で教室を大きくしてきたことを思うと、
関係性が変わっていくことに一抹の寂しさはあったが、
そこまで信頼してくれているのかと嬉しくもあった。
これからも期待に応えようと思っていた。
でも、経営者という立場は、やはり違うのだろう。
こうでなければならない、こうしなければならない、
決めるばかりでなく進めていかねばならない。
何より、結果を出さなければならない。
そんな中で、少しずつ彼の有り様は変質していった。
成果を焦ったのか、思うに任せぬ社内政治に苛立ったのか、
柔軟で理性的な師匠はいつしか、頑固で尊大なワンマン経営者に変貌した。
成果を焦ったのか、思うに任せぬ社内政治に苛立ったのか、
柔軟で理性的な師匠はいつしか、頑固で尊大なワンマン経営者に変貌した。
古くて、固くて、面倒で、結果も伴わない施策を問答無用でゴリ押ししてくる。
会議では毎回同じ自慢話と昔話とマウンティングが延々と続く。
かつてあれほど深慮だった人が、短気で傲慢になっていった。
異論や提言にも耳を貸さなくなり、イエスマンで周囲を固めていった。
くだらない人間の讒言を信じ、気に入らない人間は排除していった。
周囲にあることないこと吹き込んで、孤立させるという陰湿なやり方で。
彼を古くから知る人に言わせれば、それは以前から、ということだったが。
やがてその標的は、ついに僕に向けられた。
僕はただ、社員が安心して働ける環境を整えようと言っただけだ。
社保もなく、残業手当もなく、休日も無給で削られるブラックな就労環境に、
有望な人材がいつまでも残ってくれるわけがない。
不安を訴える若手社員の声を役員会に代弁しただけだ。
彼との約束を、僕は愚直に果たしていただけだ。
最後の年、僕は一年を通じてそれはそれは陰湿な厭がらせを受け続けた。
もうそれはここで書いたことがあるから割愛するが、
僕はずっと不思議でたまらなかった。
あれほど聡明に思えた人が、ここまで狭量で頑迷で暗愚になってしまうのは、
いったいどういうわけなんだ、と。
加齢とはかくも残酷に人の才能を蝕むのか?
それとも誰からも叱咤・非難されない「立場が人をつくる」のか?
その両方が、エゴ剥き出しの自分を客観的に省みる眼を曇らせるのか?
彼の本当の人間性が、僕に見抜けなかっただけかも知れない。
でも、少なくとも五十代半ばの彼は、もう出会った頃とは別人のようだった。
温和な表情をつくり、人の話を聞いているような素振りはするが、
アタマの中は次に何を言おうかでいっぱい。
揚げ足を取り、弱みを突き、自らの誤謬は少しも認めない。
そして最後に彼に会ったとき、彼は僕にこう言い放った。
「僕の経営している会社で、意見は聞くが反論は許さない」
「不満があるなら辞めてもらって構わない、『職業選択の自由』だよ」
「別に誰が辞めたって痛くもなんともないんだ」
「でも君がよそへ行ったところで、絶対にうまくいかないよ」
彼は僕に危機感を煽り、何クソという反骨を期待したのかもしれない。
でもここで、僕の腹は半ば決まったようなものだ。
完全に逆効果。ドッチラケ。
それまで、僕を育ててくれた恩義を感じて、
どんな長時間労働や安い給料にも不満を漏らさず尽くしてきたが、
すべてが虚しくなった瞬間だった。
僕が信頼していたあの人は、もうそこには居なかった。
かつての僕は、彼に認めてもらいたい、その一念で頑張っていた。
でも、その彼はもういない。
そして僕の仕事のモチベーションは、既に彼などではなく、
僕自身の精一杯の仕事を通じて僕を信頼してくれるようになった、
数多くの生徒であり保護者であり同僚たちになっていた。
長年尽くした教室からの異動命令が出るに到って、僕の選択肢はひとつしかなかった。
あれからもうすぐ7年。
何も間違っていなかったし、本当に良かったと思っている。
喪うものは何もなく、得るものばかりの7年間だった。
そしていま。
僕はあの頃と同じ位の規模の教室を経営する立場となり、
そしてあの頃の彼と同じ年齢を迎えようとしている。
そろそろ僕も後継の育成を考え始めてもいい頃だ。
いまの僕の教室に、あの頃の僕のような人材は入ってくるだろうか。
入ってきてくれたとして、彼の眼にいまの僕はどう映るだろうか。
僕は歳を重ねても、立場が変わっても、いまの僕のままでいられるだろうか。
独善を押し通し、まつろわぬものを次々と切り捨てていった果てに、
思考を止めて言われるがまま従うしか能のない木偶人形ばかりが残り、
やがてどうにもならなくなって泥船のように沈んでいったあの会社を、
彼は何の責任もとることなく、恥も外聞もなく投げ出したという。
本当に、かつて師と仰いだ自分の不明が恥ずかしい。
僕は彼のようにだけはならない。
そんな誓いを新たにする、46歳の春。