僕にとっての今日は、表題の通りだ。
日本中が追悼と祈りに包まれた3月11日。
あちこちでこの日をどう迎えるべきなのか、議論もあったろう。
故郷や大事な人を失った被災者の方が、
この日を特別な思いで迎えることについて、
僕なんかに何も言うことは出来ない。
けれど、まるで関係のない人が、偏った倫理観や変な義務感に駆られて、
今日一日を追悼と謹慎に塗りつぶそうとするのには違和感を禁じ得ない。
だって、今日は「2012年の」3月11日だ。
「2011年の」3月11日は二度と来ない。
日付は同じでも、あまり多くの意味を求め過ぎるのはちょっとどうかなと思う。
「あの日を忘れないために…」って、誰が忘れるというのだろう。
ツイッターやフェイスブックじゃないと黙祷できない人って何だろう。
なら、そういう人々を口汚く罵ればエライのか。
哀悼の気持ちをどう表現するのか、それは個人の自由。
表に出すことを義務づけられるものではないし、
出し方を非難されるようなものでもない。
今日は今日として日常を送るというだけの人々を
無闇に「不謹慎」という枠組みに押し込めるのは間違っている。
僕は今日、楽しみにしていた納車があって、ドライブを楽しんだ。
どこにでもある、だけど幸せな一日だ。
そして夕方、僕の妹に赤ちゃんが生まれた。
僕が叔父になった日としても、忘れられない。
そう、2万近いかけがえのない命が失われたあの日から366日が経過した今日、
僕ら家族親族にとってかけがえのない命がひとつ生まれた。
ただ、それだけの事実。
この与えられた幸せを感謝することに何の後ろめたさを覚える必要があろうか。
それとも、やはり「哀悼の意を表したい」という枕詞を並べなければ、
今日という日に個人の歓びを語ることは許されないのか?
震災に、津波に、原発に、東電に、政府に、被災者に、
思うところがないわけがない。
だけどそれは2012年3月11日の2時46分に
黙祷していなければならないという「かたち」や、
今日あった嬉しいこと、楽しいことを封印してしまうことと、
必ずしも結びつく訳じゃない。
何が言いたいのかな。
形ばかりこだわって、見失ってるものって小さくないんじゃないか。
そういうことかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
…そうか、こういうことだ。
「どうしてみんな一緒じゃなきゃいけないのか?」
「なぜ思うこと、感じること、行動が同じでなければいけないのか?」
こういうものへの本能的な嫌悪感、だ。きっと。
日本中が追悼と祈りに包まれた3月11日。
あちこちでこの日をどう迎えるべきなのか、議論もあったろう。
故郷や大事な人を失った被災者の方が、
この日を特別な思いで迎えることについて、
僕なんかに何も言うことは出来ない。
けれど、まるで関係のない人が、偏った倫理観や変な義務感に駆られて、
今日一日を追悼と謹慎に塗りつぶそうとするのには違和感を禁じ得ない。
だって、今日は「2012年の」3月11日だ。
「2011年の」3月11日は二度と来ない。
日付は同じでも、あまり多くの意味を求め過ぎるのはちょっとどうかなと思う。
「あの日を忘れないために…」って、誰が忘れるというのだろう。
ツイッターやフェイスブックじゃないと黙祷できない人って何だろう。
なら、そういう人々を口汚く罵ればエライのか。
哀悼の気持ちをどう表現するのか、それは個人の自由。
表に出すことを義務づけられるものではないし、
出し方を非難されるようなものでもない。
今日は今日として日常を送るというだけの人々を
無闇に「不謹慎」という枠組みに押し込めるのは間違っている。
僕は今日、楽しみにしていた納車があって、ドライブを楽しんだ。
どこにでもある、だけど幸せな一日だ。
そして夕方、僕の妹に赤ちゃんが生まれた。
僕が叔父になった日としても、忘れられない。
そう、2万近いかけがえのない命が失われたあの日から366日が経過した今日、
僕ら家族親族にとってかけがえのない命がひとつ生まれた。
ただ、それだけの事実。
この与えられた幸せを感謝することに何の後ろめたさを覚える必要があろうか。
それとも、やはり「哀悼の意を表したい」という枕詞を並べなければ、
今日という日に個人の歓びを語ることは許されないのか?
震災に、津波に、原発に、東電に、政府に、被災者に、
思うところがないわけがない。
だけどそれは2012年3月11日の2時46分に
黙祷していなければならないという「かたち」や、
今日あった嬉しいこと、楽しいことを封印してしまうことと、
必ずしも結びつく訳じゃない。
何が言いたいのかな。
形ばかりこだわって、見失ってるものって小さくないんじゃないか。
そういうことかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
…そうか、こういうことだ。
「どうしてみんな一緒じゃなきゃいけないのか?」
「なぜ思うこと、感じること、行動が同じでなければいけないのか?」
こういうものへの本能的な嫌悪感、だ。きっと。