知識の量やいわゆる偏差値・知能指数の類で、
アタマのよしあしが測れるかと言えば、
これについて僕は、経験から言ってかなり懐疑的だ。
というより、「そんなはずがない」と思っている。
確かに知識が豊富で、すらすらといつでも取り出せるとしたら、
それはスゴイ能力であるには違いない。
でも、そういうことでいうなら
コンピュータが一番アタマがいいということになる。
しかし、コンピュータに自主的な問題解決能力があるかと言えば、
現時点では少なくとも受動的な機械に過ぎないわけで、
人工頭脳のようなものも(もちろん僕は専門外だが)、
結局は知識(データ)と経験の集積(プログラム)によって、
最短経路を機械的に検索するという手法に過ぎないのでは。
コンピュータは素晴らしい能力を持っているが、
所詮は機械に過ぎないわけで、どう使うかは人間次第。
とすればアタマの良し悪しを論ずる対象ではない。
「アタマがいい」とはどういうことか。
僕に言わせれば、
それはアタマの使い方がいいということだ。
それはいい楽器をもっているということと、
その楽器がウマイということとは違うのと似ている。
難しい漢字がいくら書けたって、人の心を揺さぶる文章が書けなければダメだ。
難しい計算がいくら出来たって、世の中のどこかに役立てなければダメだ。
何万冊本を読んだって、人の気持ちが読めないヤツはダメだ。
何カ国語しゃべれたって、コミュニケーションがとれなきゃダメだ。
つまりは、社会の中で生きていく以上、
周囲との関わりを無視してはやっていけないわけで、
人間ひとりの為し得ることの小ささ、
人類全体の為し得る可能性の大きさを考えると、
コミュニケーション能力こそがもっとも大切なはずだ。
数値的な知能に頼む者は、その辺がどうも欠落している。
つまり、自分の独善的傾向や傲慢な言動の結果による、
周囲の評価の低さを、
無能力者の嫉妬、選良者の受難、
という図式でしかとらえられないのだろう。
だから、協調性や常識のなさを欠点として指摘すると、過敏に反応する。
多くは感情的になる。論理すら破綻する。
矛盾を指摘しようとする、その論理が矛盾してたりする。
客観性を要求する、その視点が既に主観的だったりする。
自分に原因があるとはつゆほども考えない。
だから味方はいなくなる。
だからひたすら理論武装するしかなくなる。
誰も自分を正しく評価してくれない、
やみくもに闘うことでしか自己の存在を証明できない。
思えば、哀れなことだ。
孤高を気取っているがその実、ひとり孤独の闇に沈むのだ。
権威や権力には憧憬を隠せないだろう。
ハンドルネームなんかにそれが表れる。
天皇・皇帝・帝王・将軍・総統・総裁、なんでもいい。
その手のが好きなのだ。
だって孤高を気取っているつもりなのだから。
誰にも相手にされない世界にあっては、誰でも帝王だ。
認めて欲しくて仕方ないのだろう。
哀れでならない。
学歴や難関資格こそが自分の証明だ。
それ以外に何があるというのか。
色々あるんだよ。
どこへ行っても人ともめるのは、世の中がおかしいのか?
もめるたんびに原理主義的な論理で人をやり込めようとする、
その稚拙な手口を卒業しなければ、闇の回廊は永久に続くよ。
本当にアタマがいいってのは、そういうことじゃあ、ないだろう。
自分の愚かさを識るところが第一歩なんじゃないか。
自分なんてたいしたことはない、
という謙虚さが進歩を生むんじゃないのか。
たとえ自分が悪くなくてもすらっと謝れる、
その余裕こそが尊敬を集めるんじゃないのか。
結局さ、おもしろくやれなきゃ、ダメなんだよ。
みんなを巻き込めなきゃ。
さもなくば謙虚に自分のポジションで誰にも負けないパフォーマンスを発揮するか。
どれでもないのに、いばりくさって、
そんなの無能も同然だ。
カッコ悪いよ。
カッコよくなきゃ、意味がないんだよ。
誰も憧れないし、誰も尊敬しない。
そして自分が本当に困ったときに、誰も助けてくれない。
何を言ったって、友だちのいないヤツの言い分は説得力に欠ける。
何を言ったって、女にもてないヤツの言い分は負け惜しみっぽい。
そういうことだと、僕は思うがなあ。
多くの人が助けてくれて、励ましてくれて、僕は幸せだ。
あんたは、寂しそうだね。
橋本治だったかの言葉、
僕の座右の銘ともなっている言葉、
「人間の最大の理性とは、すべてを冗談に換える力である」
これが真理だよ。
そこに人生を豊かにしてくれる、「人間関係」が築かれるんじゃないか。
それが築けないくらいなら、僕はちょっとくらいアタマ悪くても、いいよ。
別に僕はアタマの良さ(に関する人の評価)なんてどうでもいいしね。
僕の大好きなみんなが、ずっと友だちでいてくれさえすれば、ね。
アタマのよしあしが測れるかと言えば、
これについて僕は、経験から言ってかなり懐疑的だ。
というより、「そんなはずがない」と思っている。
確かに知識が豊富で、すらすらといつでも取り出せるとしたら、
それはスゴイ能力であるには違いない。
でも、そういうことでいうなら
コンピュータが一番アタマがいいということになる。
しかし、コンピュータに自主的な問題解決能力があるかと言えば、
現時点では少なくとも受動的な機械に過ぎないわけで、
人工頭脳のようなものも(もちろん僕は専門外だが)、
結局は知識(データ)と経験の集積(プログラム)によって、
最短経路を機械的に検索するという手法に過ぎないのでは。
コンピュータは素晴らしい能力を持っているが、
所詮は機械に過ぎないわけで、どう使うかは人間次第。
とすればアタマの良し悪しを論ずる対象ではない。
「アタマがいい」とはどういうことか。
僕に言わせれば、
それはアタマの使い方がいいということだ。
それはいい楽器をもっているということと、
その楽器がウマイということとは違うのと似ている。
難しい漢字がいくら書けたって、人の心を揺さぶる文章が書けなければダメだ。
難しい計算がいくら出来たって、世の中のどこかに役立てなければダメだ。
何万冊本を読んだって、人の気持ちが読めないヤツはダメだ。
何カ国語しゃべれたって、コミュニケーションがとれなきゃダメだ。
つまりは、社会の中で生きていく以上、
周囲との関わりを無視してはやっていけないわけで、
人間ひとりの為し得ることの小ささ、
人類全体の為し得る可能性の大きさを考えると、
コミュニケーション能力こそがもっとも大切なはずだ。
数値的な知能に頼む者は、その辺がどうも欠落している。
つまり、自分の独善的傾向や傲慢な言動の結果による、
周囲の評価の低さを、
無能力者の嫉妬、選良者の受難、
という図式でしかとらえられないのだろう。
だから、協調性や常識のなさを欠点として指摘すると、過敏に反応する。
多くは感情的になる。論理すら破綻する。
矛盾を指摘しようとする、その論理が矛盾してたりする。
客観性を要求する、その視点が既に主観的だったりする。
自分に原因があるとはつゆほども考えない。
だから味方はいなくなる。
だからひたすら理論武装するしかなくなる。
誰も自分を正しく評価してくれない、
やみくもに闘うことでしか自己の存在を証明できない。
思えば、哀れなことだ。
孤高を気取っているがその実、ひとり孤独の闇に沈むのだ。
権威や権力には憧憬を隠せないだろう。
ハンドルネームなんかにそれが表れる。
天皇・皇帝・帝王・将軍・総統・総裁、なんでもいい。
その手のが好きなのだ。
だって孤高を気取っているつもりなのだから。
誰にも相手にされない世界にあっては、誰でも帝王だ。
認めて欲しくて仕方ないのだろう。
哀れでならない。
学歴や難関資格こそが自分の証明だ。
それ以外に何があるというのか。
色々あるんだよ。
どこへ行っても人ともめるのは、世の中がおかしいのか?
もめるたんびに原理主義的な論理で人をやり込めようとする、
その稚拙な手口を卒業しなければ、闇の回廊は永久に続くよ。
本当にアタマがいいってのは、そういうことじゃあ、ないだろう。
自分の愚かさを識るところが第一歩なんじゃないか。
自分なんてたいしたことはない、
という謙虚さが進歩を生むんじゃないのか。
たとえ自分が悪くなくてもすらっと謝れる、
その余裕こそが尊敬を集めるんじゃないのか。
結局さ、おもしろくやれなきゃ、ダメなんだよ。
みんなを巻き込めなきゃ。
さもなくば謙虚に自分のポジションで誰にも負けないパフォーマンスを発揮するか。
どれでもないのに、いばりくさって、
そんなの無能も同然だ。
カッコ悪いよ。
カッコよくなきゃ、意味がないんだよ。
誰も憧れないし、誰も尊敬しない。
そして自分が本当に困ったときに、誰も助けてくれない。
何を言ったって、友だちのいないヤツの言い分は説得力に欠ける。
何を言ったって、女にもてないヤツの言い分は負け惜しみっぽい。
そういうことだと、僕は思うがなあ。
多くの人が助けてくれて、励ましてくれて、僕は幸せだ。
あんたは、寂しそうだね。
橋本治だったかの言葉、
僕の座右の銘ともなっている言葉、
「人間の最大の理性とは、すべてを冗談に換える力である」
これが真理だよ。
そこに人生を豊かにしてくれる、「人間関係」が築かれるんじゃないか。
それが築けないくらいなら、僕はちょっとくらいアタマ悪くても、いいよ。
別に僕はアタマの良さ(に関する人の評価)なんてどうでもいいしね。
僕の大好きなみんなが、ずっと友だちでいてくれさえすれば、ね。