ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

三階交差点の地名の由来

2006年06月18日 10時45分44秒 | Weblog
三階(さんがい)交差点
 前々回に紹介した「明治館」(旧加東郡公会堂)から商店街を北に向かって少し歩いたところで、狭い交差点に出ます。国道372号線が市街地を迂回して環状線を走っているので、この東西方向の道が近道として利用され、交通量が多いところです。
 古くから社に住んでいる人は、ここを「さんがい」とよんでいます。かつて神姫バスが商店街を走っていた頃には、「三階前停留所」がここにあったそうです。
 さて、「さんがい」の地名の由来をたずねてみると、昔、この交差点の角に「三階旅館」という料理旅館があり、それが三階建てであったことから、「さんがい」というようになったといわれています。しかし、三階旅館は二階建だったという人もあり、「さんがい」という呼び名の由来の解釈が揺らぎます。
 ある人は、石の鳥居がある西方の鳥居地区から東を望むと、この交差点辺りが地形的に二段、三段目と階段のように高くなっていることから、三階というようになったという説を唱えています。
 また、佐保神社の紋である三階菱からついた呼び名ではないかという人もあります。さらに、この交差点は、西、南、東の三方からの上り坂が出会う地点なので、「坂合」と呼ばれ、「さかあい」が「さんがい」に訛ったものではないかと推理する人も出てきて、「さんがい」論争はまだ決着がついていません。どなたか、決定打を!

 ところで、この交差点付近には、昔、旧社町の道路元標がありました(大字社小字下町829-2)。道路の拡幅などで、今は道路元標はありませんが、ここが社町の道路の起点になっていたのです。
 道路元標は、大正8年の「道路法施行令」で、国道や府県道の起点・終点の基準として設置されたものです。加東市では、旧滝野町新町の学校下の三叉路に「加茂村道路元標」が立っていますし、滝見橋の西の交差点にも「滝野町道路元標」が残されています。
 写真は新町の「加茂村道路元標」です。「加」の字が読み取れます。「標識」の「識」の字あたりがアスファルトに半分埋まっているかな?隣に「へんろみち」の道標も立っています。
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懐かしい店の名前

2006年06月16日 16時51分40秒 | Weblog
半世紀前の商店街が目に浮かぶよう・・・
 ここに昭和25年と27年の『加東加西多可・官公庁各種団体人名鑑』があります。この冊子に掲載されている「広告」がおもしろいのです。当時の社市街地にあった店の名や通りの名前が出てきます。商売、店名、場所の順に、広告の通りに書きあげてみました。あくまでもこの『名鑑』に掲載されている広告からあげたもので、当時の店の名が全部あるわけではありません。また、店の場所を、地方事務所や警察などを目印にしたものもあって懐かしさを感じます。ただし、税務署や郵便局、社病院の名が出てきますが、これも今の場所ではなく、当時の場所を示していますのでご注意を。

料理旅館 「松葉」 社町関西配電前
料理旅館 「肥田文」 社町本町通
大衆料理 「圓海亭」 社町銀座街
とんかつ季節料理 「龍美」 社町西田町
料理と喫茶 「ことぶき」 社町佐保座前
料理と喫茶 「アサヒ」 社町税務署前
とんかつ一品料理洋食 「十七八」 社町銀座街
大衆料理喫茶 「大村」 社町西田町
寿司と出前一品料理 「前田店」 社町銀座街
一品季節料理 「双葉」 社町上町
野菜なべ一品料理 「都」 社町東田町
喫茶料理 「三福」 社新郵便局前
一品料理喫茶 「三好」 社町南本町
会席料理 「笑福」 社町田町
食料品 「伊藤食料品店」 社町田町
食料品 「井岡食料品店」 社町銀座街
食料品 「堀田食料品」 社町南本町
食料品 「杉本食料品店」 社町南本町
食料品 「岸熊食料品店」 社町本町
食料品 「時本食料品店」 社町
精肉 「山本精肉店」 社町神戸銀行前精肉
精肉 「藤野精肉店」 社町銀座街
和洋菓子 「金川菓子舗」 社町社
和洋菓子 「末永菓子舗」 社町銀座街
パンと菓子 「門脇梅月堂」 社町本町通
建築金物左官材料荒物 「吉田屋」 社町本町
呉服 「山本房呉服店」 社町南本町
クリーニング 「大久保先染店」 社町田町
木綿生地雑貨類 「福岡衣裳店」 社町社病院前
化粧品 「香山商店」 社町社
メリヤス雑貨 「臼井化粧品店」 社町田町
各種ポンプ水道工事 「上月農工具店」 社町田町
靴と鞄 「柴寅靴鞄店」 社町田町
呉服ふとん 「岸本呉服店」 社町元町
自転車 「藤原自転車商会」 社町下町
ラジオ技術店 「冨田ラジオ店」 社町本町
名物甘酒饅頭 「上田菓子店」 社町三階前
石油 「小林石油店」 社町社
家具製造販売 「神戸タンス店」 社町地方事務所隣
綿布綿製品 「大西生地店」 社町三階前
洋服 「冨士屋洋服店」 社町田町
木材 「阿江材木店」  社町加東地区警察前
電気工事照明器具 「嶋本商店」 社町南本町
書籍文具 「梶原書店」 社町社
時計貴金属 「原田時計店」 社町本町
洋服 「藤原洋服店」 社町本町通
時計 「小笠原時計店」 社町
酒醤油燃料 「山本酒店」 社町銀座街
社交場 「富士ダンスホール」  社町郡公会堂前
電蓄修理電気器具 「萩原ラジオ店」 社町田町
荒物日用品 「三木屋」 社町
くすり 「依藤薬局」 社町三階前
自転車 「大橋自転車商会」 社町銀座街
文具 「大橋文具店」 社町銀座街
写真 「フジスタジオ」 社町本町
化粧品 「山本化粧品店」 社町元町
服地毛糸 「フジヤ服地店」 社町元町社配電局前
服地専門店 「キヌヤ生地店」 社町銀座街
洋品 「三木徳洋品店」 社町上町
ミシン 「向ミシン商会」 社町元町
パーマネント 「金川美容院」 社町社
薬 「藤本薬局」 社町田町
洋品雑貨 「うつみや洋品店」 社町銀座街入口
靴鞄 「神戸屋製靴店」 社町地方事務所前


栗林歯科医院   社町三階前
中村服装女学院   社町地方事務所前
有隣女学校 神田学園   社町社
加東郡砂糖卸売株式会社  社町
社海陸物産市場 社町
旭農産化学株式会社  社町
旭産業株式会社社販売所  社町上中町
中央楽器製造株式会社  社町保健所隣
神戸酒類販売株式会社社支店   社町社
大和産業株式会社   社町


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旧加東郡公会堂(明治館)あたり

2006年06月15日 23時14分08秒 | Weblog
明治館あたり

町制の実施と役場
 佐保神社の参道を南に向かって歩いて行くと、「明治館」の塀につきあたります。その曲がり角あたりに昔、社町(昭和の合併以前の社町)の役場がありました。ここに役場が建てられたのは、明治45年7月のことでした。
 加東郡社村は、この年の3月に町制実施が認められ、6月1日をもって加東郡社町となっています(これが旧社町)。それまで役場があった場所に加東郡公会堂が建設されることになり、これにともなって隣接地に新庁舎が建設されることになったのです。
 町制実施記念式典はこの新庁舎の落成式を兼ねて行われました。まず、佐保神社で町制実施奉告祭が執り行われ、続いて新庁舎講堂で多くの出席者のもとに式典が開かれました。式は、国歌吹奏、勅語奉読に始まり、松本町長の式辞、山県加東郡長の告辞などが続きました。出席者を見ると、郡長、郡書記、裁判所長、税務署長、県会議員、郡会議員、町村長、会社銀行重役、新聞記者、町会議員、区長、功労者など地域の有力者ら約160人となっています(「神戸又新日報」)。
 余興には、餅まき、自転車競争、相撲、小学生の旗行列、煙火(はなび)の打上げ、提灯行列、芸妓の踊りなど多彩な催しものが繰り広げられ、さらに一般町民には祝酒が振る舞われるなど「町内空前の賑い」(新聞)だったようです。
 
元加東郡公会堂
 今、明治館が建っている場所は、その昔、佐保神社の神事太鼓の練り場だったようです。(『佐保神社誌』地図)
 明治のはじめに、八城小学校の敷地に定められ、校舎が建てられました。さらに、明治45年(1912)には、この地に加東郡公会堂が建設されました。
 郡制が敷かれていた頃、この加東郡公会堂では、郡会が開かれ、旧加東郡(現在の加東市、小野市域)の重要な問題が議論されていました。大正末に郡制が廃止されたあとは、社町の公会堂として利用され、多くの人々に親しまれてきました。
 この堂々とした建物は、まさに旧加東郡の政治の中心であったばかりでなく、さまざまな団体の会議や集会、文化的な催しに使われ、政治・文化の中心としての役割を果たしてきました。
佐保神社の秋祭りでは、この明治館あたりで上組、下組、上中、新町の四台の太鼓屋台が揃い、宮入りの準備をします。
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田町通りの歴史(2)法蓮寺の道標

2006年06月14日 16時03分32秒 | Weblog
田町の法蓮寺の道標
田町通りは、今は空地があったり、商店も少なくなってさびしい感じがしますが、お年寄りの話によれば、社の街で一番にぎやかな通りだったそうです。
いろんな店が建ちならび、暮れの「誓文払い」や「歳の市」には、身動きがとれないほどの人出があってにぎわったといいます。
 さて、田町通りの東の端に法蓮寺があります。その境内の一角に「左 きよみず」「右 ほつけ山」と彫られた大きな道標が立っています。道標の裏にはこれを立てた人物の名と、これを発見し再建したその子孫と協力者の名が彫ってあります。この大きな道標にまつわるエピソードを紹介しましょう。
 今から200年ほど前、甲州(今の山梨県)の絹問屋の肥谷井角右衛門(ひやい・かくえもん)さんが商売のために西国を巡った帰りに、社の清水寺の辺りで道に迷い、寒さと疲労のために倒れてしまいました。幸い、そこを通りがかった大名行列に助けられ一命をとりとめることができました。角右衛門さんは、この経験から、旅人のために播州の街道に10本の道標を建てました。そのうちの一本がこの道標なのです。
 昭和になって、角右衛門さんの子孫が、先祖が播磨に道標を立てたという伝承の真偽を確かめるために社に来られ、肥田文旅館(現在の商店街駐車場イベント広場にあった)に泊まりました。その話を聞いた米屋を営んでいた上月泰治郎さんは、かつて本町通りに立っていた道標がそれにあたると思いましたが、その道標は社の街の拡大と交通の発展で邪魔になり、あちこちに移されたり売られたり、また買い戻されたりして、行方が転々としていました。そして、果ては佐保神社の境内の林の中に倒されていたのでした。
 上月さんはその子孫と出会い、昭和16年に京都への街道筋にあたる田町の法蓮寺の境内に再建したのです。その後、昭和40年代に、清水寺の麓で同じ形式の道標が見つかり、これも10本のうちの一本だということが分かりました。
 法蓮寺の道標には以上のようなエピソードがあったのです。これは、今は亡き上月輝夫先生(郷土史研究家)から教えていただきました。
 昔の旅人にとって、道標はとても大切なものでした。社の街の中にもまだ昔の道標が残っています。気をつけて見てみてください。
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田町通りの歴史(1)加東米穀取引所

2006年06月14日 08時57分18秒 | Weblog

社(やしろ)の地名の由来は、佐保神社(さほじんじゃ)に深く関係しています。
佐保神社の境内は、西側を旧国道175号線によって切り取られた形になっており、道路から高く積まれた石垣の上の石の玉垣が柵になっています。
玉垣の前に一列に小宮さん数社が並んで建っています。そのちょうど真ん中あたりに「御大神宮さん」とよばれる小宮さんがあります。周囲は石の玉垣で囲ってあり、正面の門柱にあたる背の高い石には、「加東米穀取引所」と刻まれています。
この小宮さん、そして刻まれた文字が社の歴史を語り始めるのです。
この小宮さんは、元は田町通りにあったのですが、昭和初期に田町通りを清水行きのバスが通り始めると、狭い道にはみ出して鎮座していた御大神宮さんをどこかに遷さなければならなくなりました。相談の結果、佐保神社の境内にお遷ししたというわけです。ですから、この御大神宮さんは、今でも田町通りの中田町町内会の皆さんがお祭りしています。
さて、加東米穀取引所とは?これは明治中頃から大正初期まで田町にあった米の取引所の名前です。当時の米の取引といえば、大阪の堂島が知られていますが、兵庫県では、神戸や姫路、そして社の取引所で行われていたのです。田町通りはこの米穀取引所に集まる人たちで賑わったそうです。電信や電話が発達していなかった頃、大阪の米の相場を旗振りで知らせたというのです。大阪から神戸、そして志方の城山などを中継して、社の田町通りに建てられた櫓から望遠鏡でのぞいて値段の上下を知り、それを小僧さんが大声で知らせてまわった、といいます。城山から社までは地図上で測ってみると、直線で約14キロほどです。本当に見えるのかを実験した方があり、結果は十分見えたそうです。御大神宮さんは田町の神様で、加東米穀取引所はやはり田町にあったのです。今は佐保神社の境内にあって、田町にはそのあとはありません。
御大神宮さんと加東米穀取引所と刻まれた石の玉垣を「ふるさと歴史遺産」に登録したですね。
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塀が歴史を語る

2006年06月13日 15時33分31秒 | Weblog
今年3月20日に加東市が誕生しました。旧加東郡の社町、滝野町、東条町の3町の合併で生まれた新市です。
ところで、旧社町の中心部の社地区の市街地に「老松町」(おいまつちょう)という地名があります。この地名の由来は、大きな松の木(老松)が通りに面して生えていたからだ、と聞きました。しかし、今はその松はありません。ある日、そんな話をたばこ屋さんと話しているとき、「その松はそこに生えとったんや」と通りの反対側の小さな神社(八坂神社:祇園さんとよばれている)の塀を指をさして教えてくださいました。よく見てみると、色あせた赤い色の塀の一部があとでセメントを塗ったようになっています。もう少し詳しく聞いてみると、その場所に松が生えており、その松を取り込んで塀が作られたのですが、松を伐ったあとを新たにセメントで塗った、というのです。松はありませんが、そこに老松が生えていた痕跡が確かに残っています。何だか嬉しくなりますね。
家に帰り、古い写真(昭和の初めごろか)を見ていると、佐保神社の秋祭りに出る太鼓屋台の記念撮影をしたものがあり、その場所が何と、老松町の八坂神社のところなのです。写っているではありませんか。老松らしい松の大木が・・・。
ふだん、何気なく見ている塀の一部に古い地名の由来となった老松の幹の痕跡があったなんて。「まちかどの歴史遺産」に登録したいですね。
ブログ開設最初の「まちかどの歴史再発見」情報でした。
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