ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

牛市場のあと

2006年06月22日 09時23分28秒 | Weblog
田町にあった牛市場
田町通りを東に抜けると、道池交差点に出ます。ここには社郵便局と駐車場がありますが、郵便局がこの地に新築移転してくる以前は、牛市場がありました。
 牛市場があった頃、市のある日には、早朝から牛の鳴き声があちこちから聞こえ、道路には、牛の糞がそこらじゅうにころがっていました。市場では、牛のせりがにぎやかに行われていました。
 牛市場は、道池に移転する前は、東田町(今の東田町公民館あたり)にありました。市場が移転したあとは、しばらくの間、映画館がありました。
 ところで、社に定期家畜市場がつくられたのは大正10年(1921)のことです。当時、農家にとって牛は農耕や肥料をつくるために欠くことのできない家畜でした。また、大正時代になると、食生活の変化を背景に牛肉や乳の需要が増え、加東郡の北部や東部では牛の飼育がさかんに行われるようになりました。
 社に定期家畜市場が開設されると、兵庫県下はもちろん、遠く近畿一円からも牛馬商が集まり、牛が売買されました。田町筋はこうした牛馬商たちが飲食をしたので大いににぎわったそうです。
 ところで、この郵便局から西南の一帯は「道池」という地名のとおり、元は池だったのです。昭和33年頃に池を埋め立てて道路や宅地が開かれました。
 人によっては「道池」(みちいけ)といわず、「みついけ」と言っています。昭和28年の社町三千分一地図(昭和の合併前の社町)には、たしかに「三池」と書いてあります。しかし、大正9年社町ノ内社町字限図には「道池」と書いてあり、さらにもっと古い江戸時代の絵図にも「道池」の名が書かれています。「三池」の呼び名は、道池の東の若ヶ谷にあった三つの池(奥ノ池、中ノ池、下ノ池)に由来するという人もいます。
 今、道池筋を南北に走る道路は、赤岸から松尾まで社の市街を取り囲むように弧状に走っており、「環状線」と呼ばれています。今は一部が国道372号線となり、京都と姫路を結ぶ幹線道として重要な役割を果たしています。この環状線は昭和30年の新社町合併後の大きな事業としてつくられたものでした。幅11メートルの道路は当時相当広く感じられたものです。
 平成7年の阪神淡路大震災の折りには、寸断された海岸部の国道2号線に代わって京都から姫路方面への迂回路としてその重要性が再認識されました。
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女学校のあと

2006年06月22日 09時00分14秒 | Weblog
裁判所は元県立社高等女学校あと
 社の環状線(国道372号線)の嬉野口交差点から西に向かって少し歩くと、裁判所があります。
 広々とした敷地の庭の一角に「県立社高等女学校跡」と刻んだ小さな石柱が立っています。元は、この地に県立社高等女学校があったのです。
 県立社高等女学校は大正11年(1922)にこの地に校舎が新築されました。その前身は、小野高等女学校(大正2年、小野村外三か村組合立で小野高等実科女学校として設置され、後加東郡立に移管、大正10年郡立小野高等女学校となる)で、加東郡内の小野に設置され、置かれていたものです。
 「郡制」の廃止にともない、県立に移管されるのを機に、小野から加東郡の北部への移転を希望する声が高まり、南部と北部の激しい引き合いが起こりました。小野には県立小野中学校があり、北部や東部(東条や米田)の人々は教育施設が南部地域に偏っていることに不満を抱いていたようでした。
 この女学校の移転問題は当時の加東郡役所が抱える大問題の一つでした。移転問題を話し合った加東郡会は北部、南部議員の対立で揺れ、加東郡公会堂(今の明治館)付近には群集が詰めかけ、警察が出動するほどの騒ぎになったようです。
 結局、社町から南部に慰謝料を支払うことで移転問題は決着しましたが、南部の町村では町村長がこの責任をとって辞任するという大混乱を残しました。
 昭和23年(1948)、県立社高等女学校は新しく県立社高等学校となり、昭和34年に、嬉野の現在地に鉄筋コンクリートの新校舎が建設され移転しました。
 女学校があった頃、社の市街地から嬉野に上がるとき、女学校の前を通るのが楽しみだったと古老は懐かしそうに話しておられました。
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裁判所と警察署のあと

2006年06月22日 05時54分27秒 | Weblog
裁判所
 社には裁判所があります。その歴史をさかのぼってみると、裁判所が置かれたのは、今からおよそ130年ほど前の明治11年のことで、姫路治安裁判所の社出張所として設置されたのでした。
 その後、明治23年に社区裁判所が設置されました。大正時代には、いったん廃庁になり、姫路区裁判所の社出張所になったりもしましたが、その後、復活しました。
 今の裁判所がある場所は元県立社高等女学校がありました。元の裁判所は、銀座通りから東に向かって中央公園にのびる道を、みなと銀行から少し東に行ったところの突き当たりにあったのです。今は法務局の庁舎がその敷地の一部に建っています。
 古老の話によれば、昔は銀座通りを裁判所に向かう人々が列をなしていたこともあるそうです。

みなと銀行は元社警察署あと
今、「みなと銀行社支店」のある場所に、兵庫県社警察署がありました。写真の通り、歴史を感じさせる立派な建物で、昭和3年(1928)に完成しました。
 ところで、社に警察が置かれたのは明治11年(1878)のことで、明石警察署の社交番所として、旧加東郡の北部を管轄しました。翌年に分署(今の警察署のようなもの)に昇格し、明治21年には、人々の拠出金で本町筋に庁舎が建てられました。そして、明治26年には社警察署に昇格しました。
 警察の仕組みは戦前、戦後を通じていろいろ変化してきましたが、戦後の一時期、国警と自治体警察が置かれ、社町には昭和23年から26年まで「社町警察」(自治体警察)が置かれました。その後、自治体警察は廃止され、29年に兵庫県社警察署となりました。
 今では、警察署も市街地を離れ、国道175号線と372号線が交差する現在地に新築移転しました。市街地には環状線から嬉野に上がる嬉野口交差点に時計台のあるしゃれた交番が設置されています。
コメント (2)
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