ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

社の義経伝説

2006年06月19日 10時36分40秒 | Weblog
社の「義経」伝説
社郵便局の東側の小高いところは、「百旗」(ひゃくはた)・「百旗立」(ひゃくはったい)とよばれています。
この地名の由来は、今からおよそ800年余り前の1184年、源義経が三草山に陣取る平家を急襲し、逃げる平家を追って、社まで兵を進めてきたときに、このあたりに百本の白旗を立てたという言い伝えによるものと言われています。
 源平合戦は、源氏と平氏が全国を舞台にして戦った大争乱でした。中でも、一の谷の合戦、壇ノ浦の合戦などは義経の活躍でよく知られています。一ノ谷の合戦(神戸市)では、義経軍が急な坂を一気に下って平氏の陣を襲撃し討ち破ったのですが、この合戦の前哨戦が「三草山の合戦」だったのです。
 「三草山」は加東市(旧社町)にある標高423.9メートルの山で、丹波から播磨への入口に位置しています。前年に木曽義仲の上洛によって都を捨てた平家は、西国の兵力を結集して再び京都に向かうべく、福原(神戸)に陣をはっていました。これを攻撃するために源範頼と義経兄弟に追討の命令が下ったのです。範頼は正面から、義経は背後から攻撃すべく、京都から三草山を通って一の谷に向かったのです。
 平家もぬかりなく、平資盛らが三草山に陣取り、源氏を待ちうけていました。しかし、義経が小野原(篠山市:旧今田町)に到着したとき、平家は清盛の法要を行い、鎧を脱いで油断していたのです。義経はそこへ夜襲をかけて打ち破りました。義経軍は逃げる平氏を追いながら社辺りまで来て、陣を張ったのでしょう。その後、義経は少数の家来を連れて、小野、三木から一ノ谷に向かっていますが、そのルートは謎のままです。
 義経が通ったルートにあたる加東市(社町)はもちろん、小野市、三木市にも義経、弁慶にまつわる伝承が数多く伝えられています。そのうち、社市街地には、山氏神社境内にに「義経お手植えの松」(※写真)があります。また、源氏が米を洗ったので川が真っ白になったことから「白川」というようになった(白川が訛つて下川に)とか、「字ゲンジ」という地名があったとか、社から山国に通じる坂道を「源ヶ坂(げんがさか)」というなど、約800年も前の合戦にまつわる伝承が遺物や地名となって今も残っています。
 「ゲンジ」という小字名は今はありません。しかし、下川に「ゲンジ堰」とよばれている農業用水の井堰があります。また、年輩の人は、子どもの頃、下川辺りに遊びに行くとき、「ゲンジに行こう」などと言っていたといいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする