田町の法蓮寺の道標
田町通りは、今は空地があったり、商店も少なくなってさびしい感じがしますが、お年寄りの話によれば、社の街で一番にぎやかな通りだったそうです。
いろんな店が建ちならび、暮れの「誓文払い」や「歳の市」には、身動きがとれないほどの人出があってにぎわったといいます。
さて、田町通りの東の端に法蓮寺があります。その境内の一角に「左 きよみず」「右 ほつけ山」と彫られた大きな道標が立っています。道標の裏にはこれを立てた人物の名と、これを発見し再建したその子孫と協力者の名が彫ってあります。この大きな道標にまつわるエピソードを紹介しましょう。
今から200年ほど前、甲州(今の山梨県)の絹問屋の肥谷井角右衛門(ひやい・かくえもん)さんが商売のために西国を巡った帰りに、社の清水寺の辺りで道に迷い、寒さと疲労のために倒れてしまいました。幸い、そこを通りがかった大名行列に助けられ一命をとりとめることができました。角右衛門さんは、この経験から、旅人のために播州の街道に10本の道標を建てました。そのうちの一本がこの道標なのです。
昭和になって、角右衛門さんの子孫が、先祖が播磨に道標を立てたという伝承の真偽を確かめるために社に来られ、肥田文旅館(現在の商店街駐車場イベント広場にあった)に泊まりました。その話を聞いた米屋を営んでいた上月泰治郎さんは、かつて本町通りに立っていた道標がそれにあたると思いましたが、その道標は社の街の拡大と交通の発展で邪魔になり、あちこちに移されたり売られたり、また買い戻されたりして、行方が転々としていました。そして、果ては佐保神社の境内の林の中に倒されていたのでした。
上月さんはその子孫と出会い、昭和16年に京都への街道筋にあたる田町の法蓮寺の境内に再建したのです。その後、昭和40年代に、清水寺の麓で同じ形式の道標が見つかり、これも10本のうちの一本だということが分かりました。
法蓮寺の道標には以上のようなエピソードがあったのです。これは、今は亡き上月輝夫先生(郷土史研究家)から教えていただきました。
昔の旅人にとって、道標はとても大切なものでした。社の街の中にもまだ昔の道標が残っています。気をつけて見てみてください。
田町通りは、今は空地があったり、商店も少なくなってさびしい感じがしますが、お年寄りの話によれば、社の街で一番にぎやかな通りだったそうです。
いろんな店が建ちならび、暮れの「誓文払い」や「歳の市」には、身動きがとれないほどの人出があってにぎわったといいます。
さて、田町通りの東の端に法蓮寺があります。その境内の一角に「左 きよみず」「右 ほつけ山」と彫られた大きな道標が立っています。道標の裏にはこれを立てた人物の名と、これを発見し再建したその子孫と協力者の名が彫ってあります。この大きな道標にまつわるエピソードを紹介しましょう。
今から200年ほど前、甲州(今の山梨県)の絹問屋の肥谷井角右衛門(ひやい・かくえもん)さんが商売のために西国を巡った帰りに、社の清水寺の辺りで道に迷い、寒さと疲労のために倒れてしまいました。幸い、そこを通りがかった大名行列に助けられ一命をとりとめることができました。角右衛門さんは、この経験から、旅人のために播州の街道に10本の道標を建てました。そのうちの一本がこの道標なのです。
昭和になって、角右衛門さんの子孫が、先祖が播磨に道標を立てたという伝承の真偽を確かめるために社に来られ、肥田文旅館(現在の商店街駐車場イベント広場にあった)に泊まりました。その話を聞いた米屋を営んでいた上月泰治郎さんは、かつて本町通りに立っていた道標がそれにあたると思いましたが、その道標は社の街の拡大と交通の発展で邪魔になり、あちこちに移されたり売られたり、また買い戻されたりして、行方が転々としていました。そして、果ては佐保神社の境内の林の中に倒されていたのでした。
上月さんはその子孫と出会い、昭和16年に京都への街道筋にあたる田町の法蓮寺の境内に再建したのです。その後、昭和40年代に、清水寺の麓で同じ形式の道標が見つかり、これも10本のうちの一本だということが分かりました。
法蓮寺の道標には以上のようなエピソードがあったのです。これは、今は亡き上月輝夫先生(郷土史研究家)から教えていただきました。
昔の旅人にとって、道標はとても大切なものでした。社の街の中にもまだ昔の道標が残っています。気をつけて見てみてください。