ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

女学校のあと

2006年06月22日 09時00分14秒 | Weblog
裁判所は元県立社高等女学校あと
 社の環状線(国道372号線)の嬉野口交差点から西に向かって少し歩くと、裁判所があります。
 広々とした敷地の庭の一角に「県立社高等女学校跡」と刻んだ小さな石柱が立っています。元は、この地に県立社高等女学校があったのです。
 県立社高等女学校は大正11年(1922)にこの地に校舎が新築されました。その前身は、小野高等女学校(大正2年、小野村外三か村組合立で小野高等実科女学校として設置され、後加東郡立に移管、大正10年郡立小野高等女学校となる)で、加東郡内の小野に設置され、置かれていたものです。
 「郡制」の廃止にともない、県立に移管されるのを機に、小野から加東郡の北部への移転を希望する声が高まり、南部と北部の激しい引き合いが起こりました。小野には県立小野中学校があり、北部や東部(東条や米田)の人々は教育施設が南部地域に偏っていることに不満を抱いていたようでした。
 この女学校の移転問題は当時の加東郡役所が抱える大問題の一つでした。移転問題を話し合った加東郡会は北部、南部議員の対立で揺れ、加東郡公会堂(今の明治館)付近には群集が詰めかけ、警察が出動するほどの騒ぎになったようです。
 結局、社町から南部に慰謝料を支払うことで移転問題は決着しましたが、南部の町村では町村長がこの責任をとって辞任するという大混乱を残しました。
 昭和23年(1948)、県立社高等女学校は新しく県立社高等学校となり、昭和34年に、嬉野の現在地に鉄筋コンクリートの新校舎が建設され移転しました。
 女学校があった頃、社の市街地から嬉野に上がるとき、女学校の前を通るのが楽しみだったと古老は懐かしそうに話しておられました。
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